『紅の豚』は渋くて孤独な大人の男を描いた作品として語られがちですが、その魅力はそれだけではありません。
この作品では、主人公ポルコ・ロッソの見栄や妄想や純情さといった、中年男のかっこ悪さまで丁寧に描かれています。
この記事では、冒頭の描写やフィオとの場面を手がかりにしながら、『紅の豚』がなぜ年齢を重ねるほど違って見えてくるのかを考えていきます。
※本記事は、YouTube動画の内容をもとに文字起こしを行い、
話し言葉や誤変換を整理したうえで、要点が伝わるようにまとめたものです。
内容の理解を目的としており、発言をそのまま再現したものではありません。
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『紅の豚』は「渋い男の物語」である前に、中年男のみっともなさを描いた作品でもある
『紅の豚』というと、多くの人はまず「かっこいいとは、こういうことさ。」という有名なコピーを思い出すはずです。豚の姿をした主人公ポルコ・ロッソが、渋くて、孤独で、どこか達観していて、その背中に大人のかっこよさを見る。たしかに、そういう見方は間違っていません。
ただ、この作品の面白さは、そこだけでは終わりません。むしろ強烈なのは、その渋さの下にある、中年男の情けなさや見栄や妄想まで、しっかり描いているところです。若い女の子にモテたい、かっこつけたい、目立ちたい。でも、いざ現実にそういう場面が来ると固まってしまう。そんな、どうしようもなくみっともない部分が、実は冒頭からかなり濃く入っています。
だから『紅の豚』は、ただ渋い男に憧れるための映画ではなく、かっこつけている中年男の、かっこ悪さごと愛する映画として見ると、ぐっと面白くなります。
この作品は、もともと「疲れた中年男を慰めるアニメ」として始まっていた
出発点は、国際線の機内で流す短編企画だった
『紅の豚』は、最初から劇場用の大作として始まったわけではありません。もともとはJAL国際線の機内上映用として考えられた企画で、短めの作品になる予定だったと言われています。
そこで宮崎駿が考えていたコンセプトが、かなり印象的です。いわく、「疲れて、脳細胞が豆腐になった中年男のための漫画映画」。つまり、仕事でくたくたになったおじさんたちが、飛行機の中でぼんやり眺めても楽しめるような、少し気楽で、少し色気があって、でもちゃんと愉快な作品を作ろうとしていたわけです。
この出発点を知ると、『紅の豚』の冒頭のノリがよくわかります。いきなり深い人生論や反戦のメッセージから入るのではなく、どこか間の抜けた中年男の妄想っぽさ、軽いお色気コントっぽさが漂っているのは、最初の狙いがそこにあったからです。
「かっこいい」と同時に「スケベでみっともない」が最初から仕込まれている
『紅の豚』は、表面だけ見れば、いかにも渋くて大人っぽい映画です。飛行艇、アドリア海、賞金稼ぎ、酒場、空賊、昔の女。絵面だけ並べると、いかにも男のロマンが詰まっています。
でも、少し見方を変えると、これはかなり露骨に「中年男のスケベ心」や「かっこつけ」が入っている作品でもあります。しかも、その部分をただ下品に出すのではなく、ちゃんと笑える形で、しかも女子どもには露骨にバレないように、絶妙に包んでいるのがうまいところです。
つまり、『紅の豚』は最初から、渋いだけの映画ではありません。かっこつけたいおじさんの妄想と失敗が、作品のかなり大事なエンジンになっています。
冒頭のポルコは、実はかなりわかりやすく「待っている」
戦闘服で寝ている時点で、すでに偶然ではない
映画の冒頭、ポルコは秘密基地で寝ています。一見すると、ただ昼寝をしているだけのように見えます。ところが、よく見ると、これがかなり不自然です。
ポルコは、すでに出撃用の服を着込み、ネクタイまで締め、手袋までしています。つまり、普段着でだらしなく寝ているのではなく、いつでも飛べる格好で待機しているのです。あとで出てくる普段着がタンクトップとショートパンツだとわかると、この差はかなり大きいです。
つまり、彼は偶然電話で起こされたのではありません。たぶん、近いうちに出撃要請が来ることを見込んで、準備万端で待っていた。でも、待っているうちに寝てしまった。その方が自然です。
シャンパンとバスタオルがある時点で、単なる待機ではない
さらに怪しいのが、そばに冷やしてあるシャンパンと、きれいに用意されたバスタオルです。自分一人で寝そべるのに、わざわざそういうものを整えているのは、少し不自然です。
ここを素直に見ると、ポルコはただ仕事の電話を待っていたのではなく、仕事の後に起きるかもしれない「良いこと」まで込みで待っていたように見えてきます。つまり、若い女の子を助けて感謝され、そのまま秘密基地で気の利いた時間でも過ごせるんじゃないか、くらいの妄想があったとしてもおかしくないのです。
そう考えると、シャンパンも、バスタオルも、小舟まで置いてあることも、急に意味を持ち始めます。ロマンチックな中年男の秘密基地というより、ちょっと下心のある中年男の準備万端な舞台装置に見えてくるわけです。
ポルコは「渋い男」ではあるが、同時にかなり妄想寄りの男でもある
女子大生を助けるつもりで意気込んでいるように見える
電話で知らされるのは、マンマユート団がチャーター船を襲ったという情報です。しかも、その船には鉱山銀行の給料と、バカンス中の女学生たちが乗っているらしい。ここでポルコの反応が急に前のめりになります。
この時点で、彼の頭の中には、かなり都合のいい絵が浮かんでいるように見えます。危機に陥った若い女の子たちを、自分が颯爽と助ける。感謝される。秘密基地に案内する。シャンパンを開ける。そういう、なんとも中年男らしい妄想です。
もちろん作中でポルコがそこまで口にするわけではありません。ただ、冒頭の準備の良さと、女学生と聞いた時の食いつき方を見ると、かなりその方向で読めるように作ってあります。
原作漫画には、その「中年男の妄想」がもっと露骨に出ている
実はこの感触は、見すぎでも何でもありません。『紅の豚』の元になった漫画『飛行艇時代』には、若い女の子を助けたり、女の子たちに「かっこいい」と言われて得意になるポルコのノリが、もっとはっきり描かれています。
つまり、映画の冒頭に漂っているあの少し間の抜けたおじさんっぽさは、後から勝手に読み込んだものではなく、もともとの企画や原作にかなり近い感触です。
だからこそ、『紅の豚』の冒頭は、渋い賞金稼ぎの活躍というより、中年男が勝手に夢を見て、勝手に期待しているコントとして見ると、急に輪郭がはっきりします。
その妄想が、幼女の集団によって見事に外されるのが冒頭のギャグになっている
助ける相手は「女学生」ではあるが、彼の想像とは全然違う
ところが、実際にさらわれていたのは、彼が想像していたような相手ではありません。ポルコが助けに行って出会うのは、バカンス中の幼い女の子たちです。
ここで、ポルコが頭の中で作っていたロマンチックな絵は、きれいに崩れます。若い美少女を助けるはずだったのに、目の前にいるのは、無邪気でにぎやかな子どもたち。しかも、彼女たちは空賊相手にも妙に明るく、場面全体が危機というより喜劇の空気になっていきます。
これが『紅の豚』の冒頭のうまさで、ポルコの下心や妄想を、いやらしく断罪するのではなく、子どもたちの明るさで軽やかに外してしまうんです。だから嫌味にならないし、むしろ笑える。
これは「かっこいい男の活躍」ではなく「当てが外れる男のコント」でもある
この構造は、すごく単純に言えば、かなり古典的なコントに近いです。本人はかっこつけていて、頭の中では都合のいい展開を思い描いている。でも現実は、まったく思い通りにならない。そのギャップで笑わせる。
だから冒頭の『紅の豚』は、ただポルコの渋さを見せるだけの導入ではありません。むしろ、かっこつけた中年男の見っともなさを見せることで、キャラクターに一気に人間味を与える導入になっています。
ここを見落とすと、『紅の豚』はただの渋い男の映画に見えてしまいます。でも、ここを押さえると、ポルコの情けなさと愛嬌が見えてきて、一気に面白くなります。
本当に面白いのは、ポルコが「妄想はするのに現実には弱い」こと
フィオの前で固まる場面は、その性質をはっきり示している
この作品で、ポルコの本質がよく出ているのがフィオとの場面です。普段は女好きっぽく見えるし、口も達者そうに見えます。ところが、フィオが実際に無防備な行動に出ると、ポルコは途端にあたふたしてしまいます。
つまり彼は、いつも女の子のことを考えているようでいて、いざ現実にそういう場面が来ると、全然うまく振る舞えない。色気に強そうで、実はまったく慣れていない。そこが、ものすごく少年っぽいのです。
この感じは、ずるい大人の男というより、むしろ妄想ばかりたくましくて、本番に弱い純情な少年に近いです。だからポルコは、ただのスケベなおじさんには見えません。みっともないのに、どこかかわいげがあるのです。
渋さの中に「童貞中学生みたいな純情さ」が残っている
ここが『紅の豚』の大事なところで、ポルコはただの達観した大人ではありません。かっこつけて、斜に構えて、女にも人生にも慣れているような顔をしているけれど、芯のところでは妙に臆病で、妙に純情です。
だからこそ、見ている側は、彼を本当の意味で嫌いになれません。見栄っ張りで、情けなくて、でもどこか真っすぐで、いざという時にちゃんと逃げない。このアンバランスさが、ポルコの魅力です。
かっこいいとは、完璧に決まっていることではない。むしろ、かっこ悪いところを抱えたまま踏ん張っていることなのだと、この映画は言っているようにも見えます。
だから『紅の豚』は、中年になるほど見え方が変わる
若い頃は「憧れの大人」に見え、中年になると「自分ごと」に見えてくる
『紅の豚』を若い頃に見ると、ポルコは理想の大人に見えやすいです。渋くて、孤独で、腕が立って、女にも慕われる。ああいうふうになりたいと思うのは自然です。
でも年齢を重ねると、だんだん違うところが刺さってきます。見栄を張る感じ、かっこつけたい感じ、でも実際にはうまく振る舞えない感じ、若い頃ほど無邪気に突っ込めない感じ。そういう部分が、妙に身にしみて見えてきます。
つまりこの映画は、若い人には憧れの映画として見え、中年になると、自分たちの恥ずかしさや情けなさまで映してくる映画になっていくのです。
「みっともないのに、あがいているのがいい」という視点がある
『紅の豚』の本当の優しさは、ポルコのかっこよさだけを讃えていないところにあります。彼の情けなさ、スケベ心、見栄、未練、かっこつけ、それらを隠しきらないまま見せて、それでもなお「そんな男も悪くない」と描いているところです。
それは、中年男に対する甘やかしではなく、ある種の救いです。完璧じゃない。大人になってもみっともない。変に純情なところが残っている。そういう自分を、少し笑いながら引き受けるための映画にもなっています。
だから『紅の豚』は、かっこいい男の物語である以上に、かっこ悪さを抱えた男が、それでもなんとか飛んでいる物語として見ると、いっそう深く味わえます。
『紅の豚』のかっこよさは、かっこ悪さまで含めて成立している
『紅の豚』が長く愛されるのは、ただ渋いからではありません。ポルコが、本当に決まりすぎた英雄ではないからです。見栄っ張りで、妄想しがちで、スケベで、臆病で、でも肝心なところでは逃げない。その全部が一緒に入っているから、人物として妙に生々しく、愛されるのだと思います。
冒頭だけを見ても、その設計はかなりはっきりしています。秘密基地での準備の良さ、女学生と聞いたときの食いつき、そして幼い人質たちによって見事に当てが外れる流れ。これは全部、ポルコという男の「かっこいい」と「かっこ悪い」を、同時に見せるための仕掛けです。
そして、そのかっこ悪さこそが、実はこの映画の核に近い。渋さだけなら憧れで終わりますが、みっともなさまで見えるから、自分の人生とつながってくるのです。
だから『紅の豚』を見るときは、「かっこいいとはこういうことさ。」だけで受け取るよりも、かっこ悪いところまで含めて、これが人間のかっこよさなんだと思って見ると、作品の味わいはぐっと深くなります。
出典:OTAKING / Toshio Okada
こちらが、今回の記事の元になったYouTube動画です。
要点だけでは伝えきれない話し方や空気感もありますので、
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