OTAKING / Toshio Okada

【考察】千と千尋の神隠しの油屋とハクの正体とは?作品テーマを読み解く

※本記事は、YouTube動画の内容をもとに文字起こしを行い、話し言葉や誤変換を整理したうえで、要点が伝わるようにまとめています。
内容理解を目的としており、発言をそのまま再現したものではありません。
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『千と千尋の神隠し』を油屋とハクという視点から見ると、異世界冒険とは違う作品の姿が見えてきます。

この記事では、油屋をジブリや興行の比喩として捉えながら、千尋の労働、欲望、家族の傷、そしてハクの存在が何を意味するのかを考察します。

映像や台詞、歌詞の断片をつなぐことで、『千と千尋の神隠し』のテーマをより深く読み解いていきます。

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『千と千尋の神隠し』は、油屋とハクを見るだけでまったく違う作品に見えてくる

『千と千尋の神隠し』は、あまりにも有名な作品です。興行収入は300億円を超え、長いあいだ日本映画の歴代興行収入1位に立ち続けました。金曜ロードショーでも何度も放送され、見たことがない人のほうが珍しいくらいの国民的アニメです。

ところが、この作品が「どんな話なのか」をきちんと説明しようとすると、意外と難しい。印象的な場面はみんな覚えているのに、何を描こうとしている作品なのかは、案外うまく言えない人が多いのです。

その理由のひとつは、この映画がセリフだけで筋を追うと見えにくく、建物の形、人物の態度、構図、歌詞の断片といった、映像や周辺テキストのレベルに大きな意味を埋め込んでいるからです。とくに重要なのが、油屋は何を象徴しているのか、ハクはどういう存在として置かれているのか、そして千尋の家族にどんな影が差しているのか、という三つの視点です。

この三つをつなげて見ると、『千と千尋の神隠し』は単なる異世界冒険ではなく、スタジオジブリそのものを映し込んだ自己言及的な作品であり、同時に「誰かが自分のために生きてくれた」という宮崎駿が強く抱えていたテーマを、物語の奥に沈めた作品として見えてきます。

油屋は異世界の温泉旅館ではなく、ジブリそのものとして読める

油屋の建築は、豪華に見えて実は「擬洋風」でできている

油屋は壮大な和風建築のように見えますが、設定画やイメージボードをよく見ると、下半分はコンクリートで作られた構造物です。吹き抜けの浴場があり、その周囲に客室があり、裏側に従業員の宿舎が張り付いている。上部の豪華な部分の多くは湯婆婆の居住空間で、客が使う領域は思ったより狭い。初期案には厠まで描かれていて、見た目の幻想性に対して、構造はかなり生々しく、機能的です。

宮崎駿はこの建築を「擬洋風」と呼んでいます。擬洋風とは、西洋建築の技術や素材を取り入れながら、見た目だけ和風や別の様式に寄せた建築のことです。つまり油屋は、見た目は神話的で和風なのに、実体は近代的な人工物としてできている。そのねじれ自体が重要です。

ここで言いたいのは、油屋が単なる不思議な風呂屋ではないということです。西洋の技術の上に日本的な情緒を乗せているという意味で、この建物は「日本のアニメーションそのもの」の比喩として読めます。アニメという表現形式はもともと西洋が始めたもので、その上に日本の情緒や物語を乗せている。油屋の「擬洋風」という性格は、そのまま宮崎駿自身のアニメ観に接続していくのです。

油屋の仕事は、観客を気持ちよくして帰す「興行」の比喩になっている

油屋には神様たちがやってきて、番台があり、湯に入り、もてなしを受け、さっぱりして帰っていきます。この構図は、そのまま映画館に来る観客にも重ねられます。日常の嫌なことを抱えた人が、映画館という別世界に入って、感動したり泣いたり笑ったりして、少し軽くなって帰る。湯屋の仕事は、観客を癒やすエンターテインメント産業そのものです。

そう考えると、「お客様は神様」という感覚も見えてきます。神様の機嫌を取り、満足させ、また来てもらう。油屋がやっているのは接待であり、サービスであり、興行です。そしてそのために、内部では大勢の働き手が酷使される。表の華やかさと裏の重労働が一体になっているところも、まさに巨大なアニメスタジオの姿に重なります。

この読み方に立つと、油屋は風俗産業の比喩というより、まず「観客の欲望を満たすための巨大な興行装置」として見たほうが筋が通ります。風呂に入れて帰すという行為は、観客にカタルシスを与えて帰すことの、かなり直接的な置き換えです。

働く女たちと湯婆婆の構図は、当時のジブリの空気まで映している

油屋で働くのは女たちが中心です。これも単なる絵づくりではなく、当時のスタジオジブリの実情と重ねて読むことができます。『もののけ姫』以後のジブリではスタッフ体制が大きく揺れ、新人や若い女性アニメーターが多い職場になっていた時期がありました。そうした環境の中で、大きくなりすぎたスタジオを維持し、さらにヒットさせ続けなければならないという圧力があったわけです。

湯婆婆は、作中では支配者であり、利益を求める経営者です。この存在を鈴木敏夫プロデューサーに重ねて読む見方では、油屋は「観客の欲望を満たすものを作り続けろ」という巨大スタジオの命令系統そのものになります。新人たちを集め、理不尽な重労働をさせ、最終的にはヒットを出すことが求められる。その構図は、幻想世界の物語でありながら、かなり露骨に創作現場の現実をにじませています。

つまり油屋は、神々の宿る神秘の場所であると同時に、スタジオジブリそのものでもある。『千と千尋の神隠し』の隠れた裏テーマのひとつが、金儲けへ向かっていくジブリへの批判だと考えると、この世界の見え方はかなり変わってきます。

「油屋は風俗」という通説だけでは、この作品の芯は見えてこない

キャバクラ発言は、作品の本質をそのまま説明したものではない

『千と千尋の神隠し』については、「油屋は風俗産業を描いている」「キャバクラがモデルだ」という説明がよく流通しています。確かに、そうした連想が広まったきっかけになる発言はありました。しかし、それだけで作品の中心を理解したことにはなりません。

発端は、キャバ嬢の中には人と話すのが苦手だったのに、仕事を通じて会話できるようになる人がいる、という話です。それを聞いた宮崎駿が、ジブリにも似たところがあると言った。絵しか描けないような若者たちが集まり、共同作業を通じて社会性を身につけていく。その類比自体はあり得ます。

ただし、そこから「今の日本はキャバクラ不足だ」「今回のテーマは風俗だ」といった言い方にまで飛躍すると、いかにも宣伝文句として強すぎる。作品のある面をキャッチーに言い換えたものではあっても、それがそのまま作品の本質とは限りません。

宣伝のミスリードが、作品の私小説性を隠していたとも考えられる

この作品を、風俗や社会風刺としてだけパッケージ化すると、評論家も観客も「社会批評のある映画」として受け取りやすくなります。けれども、油屋が本当はジブリの比喩で、作品全体が宮崎駿自身の創作現場や欲望、葛藤を映した私小説のような構造を持っているのだとしたら、その部分は表に出しにくい。

自分のために映画を作ってしまった、極端に作家性の強い作品を、そのまま売り出しても『もののけ姫』級のメガヒットにはなりにくい。そこで、社会的な意味づけを前面に出す必要があった、という見方はかなり説得力があります。

実際、この作品にはアニメスタジオを描いた話として読むと妙に腑に落ちる部分が多い。働き手が名前を奪われること、感情を失っていくこと、観客を気持ちよくして帰すこと、経営者の支配が絶対であること。そうした要素が一本につながると、風俗アナロジーは「話を通しやすくするための説明」であって、芯そのものではなかったのではないかと見えてきます。

千尋の物語の土台には、「ジブリで働かされる少女」という発想がある

千尋の原型は、身近な10歳の少女をどう育てるかという発想から生まれている

千尋にはモデルになった少女がいたとされます。きっかけは、宮崎駿の身近にいた10歳前後の女の子たちでした。まだ10歳くらいの少女に向けた映画をちゃんと作ったことがない、その年代の子に届く作品を作りたい、という思いが出発点にあったわけです。

しかし、その発想はやがて、もっと屈折した方向へ進んでいきます。親の仕事や都合で大人の世界に連れてこられた少女が、理不尽で重労働な場所に放り込まれる。その場所は、観客を喜ばせるものを作り続ける巨大な現場でもある。そう考えると、千尋が油屋で働かされる物語は、そのまま「アニメスタジオに入れられた少女」の比喩になります。

両親が食べ物に釣られて豚になるのも、単なる強欲の寓話ではなく、お金や仕事に引かれて大人の世界へ近づいてしまうビジネスマンの姿として読める。娘だけがそのしわ寄せを受け、理不尽な現場で働かされる。こうして物語の基礎構造は、かなり生々しいものになります。

釜爺、ハク、湯婆婆の配置は、創作者自身の分身劇としても読める

この作品を宮崎駿の私小説として読むと、登場人物の配置も面白くなります。釜爺は、少女に助言はできるが直接救うことはできない、現場の片隅にいる老職人の位置です。自分は無力なおじいちゃんだから助けられないが、知恵や助言は与えられる。そこには創作者自身の自己像がにじみます。

一方でハクは、美しい少年の姿をした、もうひとつの分身のようにも見える。理不尽な命令で外へ出され、血まみれになって帰ってくる存在でありながら、千尋にだけは優しい。これは物語上は少女漫画的ヒーローですが、創作現場で傷つきながら動き回る自分自身の投影と見ると、かなり切実です。

さらに、湯婆婆に逆らえない構図、若い才能や別の人物が重視されることへの嫉妬や不安まで含めると、この映画は単なるファンタジーではなく、創作の現場にいる人間の感情が、物語のキャラクターへ分配された作品として立ち上がってきます。

千尋が心を失い、取り戻す流れは、欲望と仕事をめぐる話でもある

油屋で働くことは、名前だけでなく心を失っていくことでもある

千尋は油屋で名前を奪われ、「千」として働き始めます。名前を奪われることがアイデンティティの喪失であるのはわかりやすいですが、もっと重要なのは、働くうちに感情の動きまで鈍くなっていくことです。

ある段階の構想では、千尋は豚になった両親を見ても平気で、心が動かなくなっていると語られていました。実際の完成版ではそこまで露骨ではありませんが、油屋で生き延びるために、人が少しずつ心をすり減らしていくという感覚は確かにあります。

これは、アニメの現場で働くことによって人間の心を失ってしまう、という創作者自身の実感とも重なります。忙しさの中で感情が麻痺し、葬式にも行けない、身近な人の死にも十分向き合えない。そうした感覚が、千尋の変化に投影されていると考えると、この物語の労働描写は急に重たく見えてきます。

おにぎりの場面は、千尋が「自分が飢えていた」ことに気づく瞬間になっている

作品の中でも印象的なのが、ハクにもらったおにぎりを千尋がむさぼる場面です。千尋はもともと欲望の薄い子として描かれています。両親が食べ物に飛びつく場面でも、自分はいらないと言う。食欲も強くないし、自分が何を欲しているのかもよくわからない。

そんな千尋が、おにぎりを食べた瞬間に、自分がどれほど飢えていたのかに気づく。ここで初めて、生きるための欲望が立ち上がるわけです。これは単なる食事シーンではなく、「欲しがること」を肯定する場面として読むことができます。

宮崎駿自身にも、金やヒットへの欲望を表向きは否定しながら、実際にはそれなしではスタジオも作品も維持できないという葛藤があったと考えると、この場面はさらに深くなります。腹が減っては動けないのと同じで、理想だけでは作品は作れない。おにぎりは、欲望を下品なものとして切り捨てず、生きる力として認める瞬間なのです。

欲望を否定しないからこそ、この作品は単純な反資本主義では終わらない

この作品には、巨大スタジオや金儲けへの批判が確かにあります。けれども、それだけではありません。お金やヒットを汚いものとして否定しきってしまえば、ジブリ美術館も作れないし、アニメーターを雇い続けることもできない。つまり、批判している相手は同時に、自分の創作を支えているものでもあるのです。

だから『千と千尋の神隠し』は、資本主義批判や労働批判だけで片づけられない。欲望に飲まれるのは危険だが、欲望がなければ生きる力そのものも立ち上がらない。このアンビバレントな感覚が、おにぎりの場面には凝縮されています。

ハクは「川の神」だけで説明すると、どうしても不自然な点が残る

ハクは、少女漫画的な「不良少年ヒーロー」として設計されている

物語の中のハクは、少女漫画のヒーローとして非常にわかりやすい造形を持っています。強い大人に命じられて悪いことをして帰ってくる。危険で、周囲からは恐れられている。でも私にだけは優しい。そういう「女の子から見た不良少年」の型に、かなり忠実です。

血まみれになって帰ってきて、千尋にだけ弱さを見せる場面はその典型です。だからハクは、神秘的な川の神である以前に、物語の感情を運ぶヒーローとして設計されています。そのうえで、彼の正体にもっと深い意味があるのではないか、という疑問が生まれてくるのです。

「小さいころから知っている」という台詞は、川の神設定だけでは説明しきれない

千尋が「どうして私の名前を知っているの」と尋ねたとき、ハクは「そのころの小さい時から知っている」と答えます。しかも、自分の名前は奪われて思い出せないのに、千尋のことだけは覚えていたと言う。この台詞は印象的ですが、そのまま受け取ると少し不自然です。

もしハクが単純にニギハヤミコハクヌシという川の神で、千尋が幼いころに溺れかけたのを助けた存在だというだけなら、なぜそこまで強く個人的に千尋を覚えているのかが弱い。助けた相手が一人なら覚えていてもおかしくないとはいえ、物語がそこに置いている感情の強度は、それ以上のものに見えます。

さらに、釜爺がはっきり「愛じゃ」と言い切るのも気になります。宮崎アニメでは、主人公たちの感情をそう露骨に断言しないことが多いからです。にもかかわらずここで言い切るのは、恋愛というより、もっと無条件で深い結びつきを示したかったからではないか、と考えたくなります。

歌詞と絵コンテをつなぐと、「ハク=死んだ兄」という考察が立ち上がる

イメージソングにある「私のために生きてくれた、誰か」が鍵になる

『千と千尋の神隠し』には、本編では使われなかったイメージソング「あの日の川へ」があります。この歌詞には、物語の核に触れているような一節があります。幼い自分が濡れて泣きながら川へ向かい、靴が流れていく。そして「私のために生きてくれた、誰か」と歌われるのです。

この「誰か」が誰なのかは、本編では明言されません。けれども、ただ川の神に助けられたというだけなら、「私のために生きてくれた」という表現はやや重すぎる。むしろ、自分の命を助けるために誰かが犠牲になった、と考えたほうがしっくりくる言葉です。

この歌詞は採用されなかったとはいえ、制作段階でのイメージの中心に置かれていた可能性があります。そう考えると、本編で言われないことを補う重要な手がかりになります。

回想シーンでは、川に落ちたのは裸の千尋で、手を伸ばすのは服を着た別の子どもに見える

ラスト近く、千尋が記憶を取り戻す場面では、水の中へ子どもの手が伸びていく映像が出てきます。このシーンをよく見ると、落ちた側の千尋は裸で、少なくとも上半身に服がないように描かれています。一方で、手を伸ばしている子どもはTシャツのようなものを着ているように見える。

絵コンテでも、ここは「千尋の手」ではなく「子供の手」と書かれているとされます。つまり、わざと誰の手かをぼかしている。しかも水しぶきの大きさも、靴が落ちた程度ではなく、もっと大きなものが水に入ったように見える。

この差異をそのまま受け取るなら、裸の幼い千尋が川に落ち、それを助けようとして別の子どもが手を伸ばした、と読むことができます。そうなると、「川の神が助けた」という単純な説明では足りなくなります。

ハクを「千尋の死んだ兄」と読むと、多くの違和感が一気につながる

ここから導かれる大胆な考察が、ハクは千尋の死んだ兄ではないか、というものです。千尋は幼いころ川に落ち、それを助けようとして兄が手を伸ばし、兄は流されて帰ってこなかった。人のために命を落とした兄が、その川で神に近い存在になった。だからハクは千尋のことを「小さいころから知っている」と言えるし、自分の名前を失っても千尋だけは覚えていた、という強い個人的結びつきにも説明がつきます。

釜爺が「愛じゃ」と言い切るのも、恋愛感情ではなく兄妹愛ならしっくりきます。千尋を守ろうとする過剰なまでの献身も理解しやすい。さらに、「埋もれてしまった川」という表現も、単なる都市開発だけではなく、死や埋葬を思わせる比喩として読むことができます。

もちろんこれは公式に明言された設定ではありません。ただ、映像や歌詞や台詞の断片をつないでいくと、この考え方が驚くほど多くの謎を整えてしまうのも事実です。

『銀河鉄道の夜』とのつながりを見ると、この考察はさらに深くなる

宮崎駿が繰り返し語る「誰かが自分のために生きてくれた」というテーマ

宮崎駿は、この作品について「誰かが自分のために生きてくれたという事実を言いたい」という趣旨のことを語っています。この言葉は非常に重いのですが、ストーリーを表面だけ追っていると、なぜそこまでそのテーマを強調するのかは少し見えにくい。

ところが、ハクを千尋のために命を失った存在として読むと、このテーマは一気に中心へ出てきます。千尋は、知らないあいだに誰かに命を救われて生きていた。そして今度は、自分がハクのために命をかける番になる。そこで初めて、テーマが循環するのです。

『銀河鉄道の夜』のカンパネルラと重ねると、濡れた身体や靴のモチーフが響いてくる

宮崎駿は『銀河鉄道の夜』をずっと意識していたとされます。この作品では、川で友だちを助けようとして死ぬカンパネルラや、沈没事故に遭った人々など、「誰かのために生きようとして命を失った者」が重要な位置を占めています。

濡れた身体、流れる靴、水辺の記憶、そして自分のために生きてくれた誰か。こうしたモチーフは、『千と千尋の神隠し』でも強く響いています。海原電鉄の場面の構図が『銀河鉄道の夜』を思わせるという指摘も含め、この作品は表面上の異世界冒険の下で、「自己犠牲によって生かされる命」という宮沢賢治的なテーマを抱えていると見ることができます。

そう考えると、ハクを単なるボーイミーツガールの相手役としてだけ見るのはもったいない。彼は千尋の過去と死の記憶、そして「生かされてきた」という事実そのものを担う存在なのです。

千尋の母が冷たいのは、単なる性格ではなく、家族の傷を背負っているからだと読める

母親は千尋と会話していても、顔をきちんと見ない場面が多い

冒頭の千尋の母親には、どこか不自然な冷たさがあります。千尋が不安を訴えても、まともに顔を見ずに返事をしたり、よそを向いたまま会話したりする。父親は比較的ちゃんと目を合わせて話すのに、母親だけ態度に微妙なズレがあるのです。

この違和感には多くの人が気づきますが、作中では理由が語られません。だから単に忙しい母親、鈍い大人、と片づけることもできます。ただ、画面はわざわざその冷たさを見せている。偶然の演技ではなく、意味のある差として配置されているように見えます。

長男を失った過去を隠していると考えると、母の態度の冷たさに説明がつく

もし千尋に兄がいて、その兄が千尋を助けて死んだのだとしたら、母親の態度は非常に重い意味を持ちます。意識の上では、息子の死は娘のせいではないとわかっている。娘を大事に思ってもいる。けれども、無意識のレベルでは、どうしても千尋を見ることがつらい。長男を失った記憶が、千尋の存在と切り離せなくなっているからです。

その結果、顔を見ない、声が少し冷たい、注意のしかたに微妙な差が出る。岩場を歩く場面でも、自分が危ないと父親には甘えるのに、千尋にはぶっきらぼうに「気をつけなさい」と言うだけになる。こうした細部は、無意識の屈折として読むと異様によくはまります。

つまり、母親の冷たさは性格描写ではなく、家族が喪失を隠したまま生きていることの現れなのです。

引っ越しもまた、家族が停滞した時間から逃れようとする動きに見える

物語は引っ越しの途中から始まりますが、その理由ははっきり語られません。千尋自身の学校や友だちの都合だけで決まったようにも見えない。もし母親が長男の死を抱えたまま、家族全体が停滞していたのだとしたら、引っ越しは気分転換や再出発の試みに見えてきます。

父親はそのために動き、母親はうまく娘と向き合えない。千尋は友だちと引き離されて絶望している。三人とも、生きてはいるがどこか死んだような状態で、異界に足を踏み入れてしまう。そう読むと、冒頭の一家にはすでに「生の停滞」が染みついていたことになります。

千尋が帰れない電車に乗る場面で、テーマはようやく一巡する

千尋は、かつて自分を救ってくれた誰かのために、今度は自分が危険な場所へ向かう

物語の後半で、千尋はハクのために帰り道のない電車へ乗って銭婆のもとへ向かいます。あの電車は、どう見ても死の世界へ向かうイメージで描かれています。水の上を走り、戻れないことが強調される。つまり千尋は、ハクのために自分の安全圏を捨て、死の側へ近づいていくわけです。

ここでようやく、「かつて私は誰かのおかげで生きていた。そして今度は私が誰かのために生きる」というテーマが完結します。もしハクが兄だとすれば、この往復はさらに鮮やかです。兄はかつて千尋のために死に、千尋は今、兄のために帰れない場所へ向かう。そのとき初めて、受け取るだけだった命が、返すべきものへ変わるのです。

セリフで説明しないからこそ、感動は深いが、構造は見えにくい

この作品の厄介であり、同時に凄いところは、こうした核心部分をほとんどセリフで説明しないことです。大事なことは音楽と映像で押し切られる。だから初見ではただ感動して終わるし、何に感動していたのかを言葉にしにくい。

しかし、川の記憶、歌詞、母親の態度、ハクの台詞、帰れない電車といった断片をつないでいくと、作品の奥に一貫したテーマがあることが見えてきます。わかりにくいのではなく、意図的に沈められているのです。

この作品は、暗い秘密を抱えながらも、最後には大きなハッピーエンドへ向かっている

千尋は、欲望も食欲もない「顔なしのような状態」から、人間に戻っていく

冒頭の千尋は、食欲もなく、何をしたいのかもわからず、環境の変化にただ怯えているだけの子どもです。いわば、生きているけれど生気が薄い。作中の顔なしにも通じる、「欲望がないがゆえに輪郭もない」状態です。

ところが油屋での経験を通して、千尋は働き、泣き、食べ、選び、危険な場所へも自分の意志で向かうようになります。欲望に飲まれるのではなく、自分の欲望や意志を持つことによって、人間として立ち上がっていくのです。

これは単なる成長物語ではありません。自分が誰かに生かされてきたと知り、そのうえで今度は誰かのために動く存在になる。そうして初めて、本当に「生きている」と言える状態に戻っていく話です。

家族もまた、隠された喪失を越えて生き直す余地を与えられている

もしこの物語の底に、死んだ兄と、それを隠した家族の傷があるのだとしたら、ラストはただ元の世界へ戻るだけではありません。千尋が異界で得た経験は、家族全体が止まっていた時間を動かし直すきっかけになります。

母親は娘と向き合えなかった状態から、父親は状況を変えようとするだけで本質に触れられなかった状態から、少しずつ抜け出せるかもしれない。千尋はすでに、誰かのために生きるという感覚を知って帰ってきます。だからこの物語は、暗い秘密や死の気配を抱えているにもかかわらず、最後にはきちんと「生へ戻る」方向に開かれているのです。

『千と千尋の神隠し』は、見るたびに深くなる作品である

『千と千尋の神隠し』は、初見では不思議な冒険譚として楽しめます。けれども、油屋をジブリの比喩として見て、千尋の労働を創作現場の物語として見て、さらにハクと家族の背景に死者の記憶を読むと、この作品は一気に別の顔を見せ始めます。

油屋は観客の欲望を満たす巨大な興行装置であり、同時にスタジオジブリそのものでもある。千尋はそこで心を失いかけながら、欲望と意志を取り戻していく。ハクは単なる美少年ではなく、「自分のために生きてくれた誰か」を背負った存在として現れる。そして千尋は最後に、その誰かのために自分が危険な場所へ向かう。

こうして見ると、『千と千尋の神隠し』は、異世界の話である以上に、「生かされてきた者が、誰かのために生きる側へ回る」話だと言えます。だから何度見ても、ただの名作では終わらない。見返すたびに、建物の形、台詞の重み、家族の目線、音楽の流れまで、違って見えてくる作品なのです。

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【UG# 307】2019/11/10 金ローまたジブリかよ!いやいや、この動画を見ると全く違う作品に 『千と千尋の神隠し』徹底解説

出典:OTAKING / Toshio Okada

こちらが、今回の記事の元になったYouTube動画です。
要点だけでは伝えきれない話し方や空気感もありますので、
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