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内容理解を目的としており、発言をそのまま再現したものではありません。
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『崖の上のポニョ』は、かわいらしい見た目とは別に、グランマンマーレや宗介の約束を通して、かなり怖さを含んだ物語として読むことができます。
強くて美しく、どこか得体の知れない女性たちの描かれ方をたどると、この作品に込められた女性観や不穏さが見えてきます。
この記事では、『崖の上のポニョ』の怖さに注目しながら、グランマンマーレの存在、藤本との関係、宗介が結ぶ約束の意味を考察します。
『崖の上のポニョ』は、宮崎駿の女性観が真正面から出た作品である
『崖の上のポニョ』は、かわいらしい見た目や明るい主題歌の印象とは裏腹に、宮崎駿の女性観をかなり真正面から描いた作品だと考えられます。しかもその女性像は、ただ優しいとか母性的だというだけではありません。強く、美しく、得体が知れず、男の側から見るとどこか恐ろしくもある。そうした感覚が、この映画にはかなり濃く入っています。
だからこの作品は、表向きはハッピーエンドのように見えながら、その内側には少し怖い話、場合によってはかなり不穏な話が埋め込まれています。とくにグランマンマーレの描き方と、宗介が最後に交わす約束をどう見るかによって、この映画の印象は大きく変わってきます。
グランマンマーレは、母性的で大らかな存在として現れながら、同時に圧倒的に異質な存在でもある
最初に見えるのは、優しく巨大な海の女神としての姿である
ポニョの母親グランマンマーレは、海の女神として描かれています。大らかで優しく、何事にも動じず、まさに母性のかたまりのような存在です。一方で、その夫である藤本は人間の男であり、しかもかなり小さく、せわしなく、グランマンマーレに対してぞっこんになっている人物です。彼女に会えると思うだけで動転し、その結果として舵さばきが乱れ、大きな災害につながってしまうほどです。
この時点ですでに、夫婦の力関係はかなりはっきりしています。藤本は妻を敬い、怯え、憧れ、振り回されている。グランマンマーレはそれを包み込むようでいて、実際には全体を支配している。そういう構図が、登場した瞬間からできあがっています。
初登場シーンには、宮崎駿が描きたい女性の身体性が露骨に入っている
グランマンマーレの初登場は、宗介の父・耕一が乗る小金井丸の下を通る場面です。最初は海の彼方から、光る波のようなものが近づいてきます。その中に赤い宝石のようなものが見えるのですが、よく見ると、それは装飾品ではなく、首元から胸元にかけてのデコルテと、そのあたりにかかるネックレスのように見えてきます。
つまり、海面すれすれを泳いでくる巨大な存在の中で、まず強く印象づけられるのが胸元であり、そのふくらみが波を蹴立てているように見える。かなり直接的ですが、ここでは「巨乳が波になってやってくる」というくらいの勢いで、女性の身体が見せられています。いかにも宮崎駿が、自分の描きたいものを遠慮なく入れている場面です。
しかもそれは単なる色気の表現ではありません。母性を象徴するような大きさと包容力を持ちながら、同時に男を圧倒する異質さもある。グランマンマーレの最初の印象は、その二つが重なったものになっています。
グランマンマーレの変身には、意図的に“化け物性”が忍ばされている
藤本を説得する時だけ、人間大になって触れてくる
グランマンマーレは巨大なまま藤本の前に現れ、最初は距離を保ったまま話を聞いています。ところが、ポニョが人間になりたがっていることを聞き、藤本を説得しようとする場面になると、急に人間大に変身して手を取ります。
ここが面白いのは、それまで巨大なままで威厳を保っていたのに、説得という一番大事な局面では、相手と同じサイズになり、しかも直接触れてくることです。これは単に会話しやすくしたというより、色仕掛けに近い説得として見た方がしっくりきます。距離を取っていた存在が、必要な時だけ縮んで近づき、触れ、相手の心を動かす。かなりやり手の女性として描かれているわけです。
変身の途中をわざわざ不気味に見せているのは、作画ミスではなく演出である
さらに特徴的なのが、その変身の見せ方です。振り返る動きの中で、まず藤本から見えない側だけが縮み始め、顔だけが先に小さくなり、首から下はまだ巨人のまま残る。そのため、一瞬プロポーションがおかしく見え、首だけが不自然に長いような状態が生まれます。そして最後に、一気に全体の縮尺が合っていく。
これは偶然の崩れ方ではありません。こんな重要な女性キャラクターの初登場で、しかもゆっくりした振り返りの場面に、単純な作画ミスが入り込むとは考えにくいからです。むしろここでは、夫の側からは見えないようにしながら、観客には“化け物が人の姿を取っている途中”の気味悪さを見せていると考えた方が自然です。
つまりグランマンマーレは、美しく、包容力があり、魅力的であると同時に、どこか本質的には人外の存在でもある。その不気味さを、宮崎駿はわざわざ一瞬だけ見せているのです。
花壇で足元を隠す演出は、グランマンマーレの本体を見せないためだと読める
リサとの会話シーンは、不自然なほど足元が見えないように作られている
映画の終盤、グランマンマーレと宗介の母・リサが立ち話をする場面があります。ひまわり園の老人たちは遠くからその様子を見ていますが、何を話しているのかはまったくわかりません。この時点ですでに不自然なのですが、さらに妙なのは、グランマンマーレの立ち位置と、リサの歩き方です。
リサは呼ばれてこちらへ戻ってくるのですが、その時に花壇を避けるようにして斜めに歩きます。しかもこれは、その場のアドリブのような動きではなく、コンテの段階から花壇を避けて歩くように指定されているという話です。つまり、単なる背景処理ではなく、そこに花壇が置かれていること自体に意味がある。
さらに、宗介とポニョがグランマンマーレに会う場面でも、彼女は花壇の途切れる手前でぴたりと止まり、足元を見せません。ここまで徹底して下半身の情報を隠しているのなら、それは単なる上品な演出ではなく、見せたくないものがあるからだと考えたくなります。
足元を隠している理由は、人間の姿の先に別の本体があるからだと考えられる
この不自然さを解く鍵として挙げられるのが、グランマンマーレの正体です。宮崎駿のインタビュー集『折り返し点 1997〜2008』では、彼女の正体が巨大なチョウチンアンコウだとはっきり書かれているそうです。しかも大きさは1キロメートル級の超巨大個体で、人間の姿をしている女性部分は、その一部にすぎないという読みが可能になります。
もしそうなら、観客に見えている美しい女性の姿は、いわば誘引突起の先にある疑似餌のようなものです。本体は海中に潜む深海生物で、その触手の先に女の姿が形成されている。そう考えると、足元を絶対に見せない演出、花壇で下半身を隠す構図、リサが何かを踏まないように避けて歩く動きまで、ひとつながりで理解できるようになります。
グランマンマーレの正体をチョウチンアンコウと見ると、この作品の怖さが一気に増す
光る女神の姿は、獲物を誘うための発光器官の延長として理解できる
チョウチンアンコウは、深海で発光器官を使って獲物をおびき寄せる生物です。頭部から伸びた誘引突起の先端やその周囲から発光し、それに寄ってきた相手を捕食する。もしグランマンマーレがその巨大な化け物だとするなら、美しい女の姿で海中に光っていることも、ただの幻想的な演出ではなく、生物としての機能になります。
つまり、女神のように見える姿そのものが、相手を引きつけるための構造である可能性があるわけです。美しさも、優しさも、包容力も、ただ高次の愛情ではなく、生物としての誘惑の形かもしれない。そう考えると、このキャラクターの印象は急に怖くなります。
藤本との関係も、“異種交配”として見るとまったく違う話になる
宮崎駿は、グランマンマーレと藤本の関係について、異種交配がこの作品の本質のひとつだという趣旨のことを楽しげに語っているそうです。つまり、人間の男と巨大な深海生物が交わり、子をなしている。これは昔話にある異類婚姻譚の系譜でもありますが、『ポニョ』ではその異物感がかなり露骨です。
しかも宮崎駿は、藤本だけでなく、グランマンマーレにはほかにも何人も夫がいるとも語っている。ここで彼女は単なる理想の母ではなく、貪欲で、多くの相手と関係を持ちうる存在として浮かび上がってきます。大らかで優しいことと、欲望が強いことは両立する。むしろそこが、グランマンマーレという存在の不気味な魅力になっています。
チョウチンアンコウの繁殖を重ねると、藤本の立場はさらに不穏になる
オスがメスに癒着し、器官の一部になる生態が下敷きにある
チョウチンアンコウの繁殖は特殊で、オスはメスに噛みつくと、そのまま組織が癒着し、一生離れなくなります。その後は自力で生きる能力の多くを失い、最終的にはメスの体の一部のようになって、産卵時に精子を供給する器官として存在し続けることになります。
この生態を、わざわざグランマンマーレの本体設定に採用したのなら、そこに意味がないとは考えにくい。だとすれば、藤本以外の夫たちはすでに彼女の中に取り込まれ、同化されている可能性があります。単に別の場所で暮らしているのではなく、もう彼女の内部に吸収されているのではないか。そう読むと、一気にホラーになります。
藤本だけが生き残っているのは、まだ役に立つからだという見方ができる
ではなぜ藤本だけは独立した個体として存在しているのか。それは彼がまだ役に立っているからだ、という読みが成り立ちます。藤本には『海底二万里』のノーチラス号の生き残りという設定があるとされ、海の生命のエキスを抽出し、生命の水を精製している人物でもあります。彼の壺に記された1871年という年号が、『海底二万里』の出版時期と結びつけられているのも、その設定を補強するものとして読めます。
つまり藤本は、グランマンマーレに助けられ、その後も彼女にとって有用だからこそ、まだ吸収されずに済んでいる。しかし逆に言えば、役に立たなくなった時には、彼もまた同化される側へ回るのではないか。愛しい妻であると同時に、使い物にならなくなれば取り込まれるかもしれない存在。それが藤本にとってのグランマンマーレです。
ただ、この世界では、それを藤本自身が本気で嫌がるかどうかは微妙です。恐ろしさを知りながらも、彼は彼女に夢中で、むしろ最終的にそこへ取り込まれることすら受け入れてしまいそうな気配があります。
宗介が結ぶ契約は、かわいい初恋ではなく、一生を縛る約束として描かれている
宗介は子供だからこそ、守りきれないはずの約束をしてしまう
物語の終盤、宗介はポニョをずっと好きでい続け、守るという契約を結びます。表面だけ見れば、これは純粋でかわいらしい愛の証のように見えます。しかし宮崎駿自身は、この点についてかなりはっきりしていて、大人にはそんな約束はできないし、仮にしても守れない、と語っています。
なぜなら大人は、結局つまらない大人になるからです。子供だけが、無茶な約束を無邪気に信じ、守ろうとしてしまう。その意味で宗介は、まだ大人の現実を知らない子供だからこそ、一生をかけるような契約を引き受けてしまうのです。
そして宮崎駿は、それを悲劇としてではなく、どこか笑いながら受け止めています。宗介の一生はこれから大変ですよ、と笑って語るのは、その契約が甘い夢ではなく、長い苦労の始まりでもあることを知っているからです。
それでもこの結末をハッピーエンドと呼ぶところに、宮崎駿の本音がある
ではなぜ、そんな大変な契約を結んだ物語をハッピーエンドと呼ぶのか。そこに、宮崎駿の女性観がはっきり出ています。彼にとって、グランマンマーレだけが特別に怖いわけではありません。女というものは本質的に、強く、美しく、得体が知れず、男の側からすればかなわない存在なのだ、という考え方が、この映画には通っています。
一度好きになってしまったら、男はその女に一生振り回される。それでもなお、その運命を引き受けることが幸福なのだ。だから苦労はするし、理解もできないし、怖いけれど、それでも好きになること自体は祝福されている。これが、この作品で描かれているハッピーエンドの正体だと考えられます。
リサもまた、グランマンマーレと同じ系統の“強い女”として描かれている
リサは母親である前に、ひとりの女として描かれている
宗介の母リサは、宮崎アニメの中でもかなり独特な母親像です。息子の食事より夫との喧嘩を優先し、子供を乗せたまま乱暴な運転をし、宗介に「ママ」ではなく名前で呼ばせている。こうした細部を積み重ねると、彼女は典型的な母性の象徴としては描かれていません。
むしろ、母親である前に、強く、自立した、ひとりの女として描かれている。その意味でリサは、スケールこそ違えど、グランマンマーレと同じ系列の存在です。外見も性格も違うのに、男や子供の側から見た時の「かなわなさ」という点ではよく似ています。
グランマンマーレとの密談は、女同士だけで交わされる契約の場として見える
グランマンマーレとリサが何を話しているのか、映画は最後まで聞かせません。ここまで隠すなら、そもそも会話シーン自体を省いてもいいはずなのに、わざわざ長めに見せる。これは、観客に内容そのものではなく、「何か重大な取引が行われている」という感触を残したいからだと考えられます。
その取引とは、おそらく「夫を返す代わりに、あなたの息子をこちらの側へ引き入れる」という類のものです。もちろん宗介を取り上げるわけではない。ポニョと宗介はリサの家で暮らすとしても、宗介はもう普通の子供ではなくなる。グランマンマーレの娘と結びついた時点で、彼の人生はあちら側と接続される。そういう話として見ると、この密談はかなり不穏です。
しかもリサは、そうした提案を完全に拒絶するタイプには見えません。夫が戻ってきて、息子も手元にいて、そのうえで娘のような存在が家に加わるのなら、案外それを受け入れてしまう可能性がある。だからこそ、この会話は観客に直接聞かせられないのです。
『ポニョ』が怖いのは、女の強さを祝福しながら、男の敗北を当然のこととして描いているからである
藤本のクマは、その運命をすでに知っている男の顔である
藤本の目の下には、いつもクマがあります。彼はすでに、女という存在の恐ろしさを知っている男です。強くて、美しくて、得体が知れなくて、自分ではかなわない存在に魅了され、そのために働き、疲れ、振り回される。その未来を知っているからこそ、彼の顔にはくたびれた影があるのです。
一方で宗介は、まだそれを知らない。だから明るく、けなげで、まっすぐに約束を結んでしまう。藤本が知ってしまった大人の運命を、宗介はまだ知らない。その差が、二人の表情の違いになっています。
明るい歌で終わるからこそ、その先の人生の重さが逆に際立つ
物語は、宗介とポニョがキスをして終わり、そのまま明るい歌へつながっていきます。いかにも楽しく、かわいく、幸福なラストです。しかし、ここまで見てくると、その明るさは単純な安心ではありません。
むしろ宮崎駿は、この楽しい終わり方の裏側に、「これから彼は一生振り回される」「でもそれもまた幸福なのだ」という複雑な感覚を忍ばせています。だから『崖の上のポニョ』は、子供向けのかわいい映画であると同時に、男が女にどう魅了され、どう支配され、それでもその運命を受け入れて生きるのかを描いた、かなり怖い作品でもあるのです。
『崖の上のポニョ』は、宮崎駿にとっての“女とは何か”を描いた作品として読める
この作品をそうした視点で見ると、グランマンマーレだけが特別な怪物なのではなく、ポニョもリサも、程度の差こそあれ、みな同じ方向を向いています。女はみな強く、美しく、怖く、男の理解を超えている。そして男は、そのことを知りながら惹かれてしまう。
だから『崖の上のポニョ』は、単なるファンタジーでも、かわいい恋物語でもありません。宮崎駿が抱いている女性像、あるいは女性に対する畏怖や憧れや敗北感を、非常に率直に、しかも寓話の形で描いた作品だと考えられます。
明るい歌と丸い絵柄に包まれているので見逃しやすいのですが、中身はかなり過激です。異種交配、同化、契約、女同士の密談、子供が背負う一生の約束。こうした要素を重ねていくと、『ポニョ』はむしろ、かわいさの奥にとても古くて怖い神話的な構造を隠した作品として立ち上がってきます。
意味が分かると、かなり怖い「崖の上のポニョ」
出典:OTAKING / Toshio Okada
こちらが、今回の記事の元になったYouTube動画です。
要点だけでは伝えきれない話し方や空気感もありますので、
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