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映画『ジョーカー』は高く評価される一方で、「期待したものと違った」「つまらなかった」と感じる人も多い作品です。この記事では、その評価が大きく割れる理由を、作品の構造や見せ方から整理していきます。
『ダークナイト』のような悪のカリスマ像を期待すると外しやすい一方で、この映画を「悪に落ちる人間の主観」や「悪のインフルエンサーを描く作品」として見ると、違った面白さが見えてきます。ネタバレなしの見どころから、孤独、笑い、暴力、ラストの再解釈まで、本文全体の論点に沿って読み解きます。
映画『ジョーカー』は、なぜ評価が真っ二つに割れるのか

ハッピーハロウィン。
ということで、今日のテーマは映画『ジョーカー』です。
スーパーヒーローをモチーフにした映画なんですけど、2020年度のアカデミー賞で11部門ノミネート、主演男優賞と作曲賞を受賞した傑作ですね。
この作品、世界的にもものすごく評価されている一方で、「全然つまらなかった」とか、「期待したものと違った」という人も結構いたんですよね。
『ダークナイト』の時のジョーカーみたいな、悪のカリスマが正義の味方を振り回していく、知性の戦いみたいなものを期待した人には、ちょっと期待外れだったんだと思います。
じゃあ、なんでこんなふうに評価が分かれてしまうのか。どう見れば、この『ジョーカー』という映画を楽しめるのか。『ダークナイト』みたいなものではなくて、「この角度から見れば、すっごい面白いよ」という話をしたいんです。
まずはネタバレなしで、この映画の全体構造を話します。
そのあとで、細かなシーンを一個一個、証拠として挙げながら、この作品の魅力とか、根底に書かれているメッセージを暴いていきます。
ネタバレなしで見る『ジョーカー』の面白さ

『ジョーカー』、すごい面白かったですよね。僕は評価5段階で言うと、4.1くらいなんですよ。
正直言って、ぶっちゃけ、タイツを履いたヒーローが出てこないから面白い、というところもあると思うんですね。
なぜかというと、スーパーヒーローものって、見る時にちょっと知能指数を下げる、そういう操作を自分にしないと、なかなか難しいところがあると思うんですよ。
たとえば『まどマギ』って、見る時にちょっと自分の知能指数を下げるじゃないですか。でないと、女の子が世界を救う話っていうのを、最初から真正面で受け止めるんじゃなくて、1階、階段を1段か2段降りるつもりで見て、「お、すごい、すごい、すごい!」っていう見方になる。これは正しいと思うんですけども。
マーベルにしてもDCにしても、スーパーヒーローものって、やっぱり1回、知能指数を下げないと。
人間が空を飛んだり、目から光線を出したり、エネルギー保存則に反するような行動を取ったりというところで、どうしても納得できないところがある。その上で、1段か2段下げた後で、存分に物語世界に入り込むことができるわけです。
ヒーロー映画というのは、多かれ少なかれこの操作が必要だと僕は思っています。
ところが『ジョーカー』には、この操作がゼロなんですよ。これ、最後まで見れるところが、ちょっと不思議なんですね。その中で、没入感がすごい。
スーパーヒーローものでもリアルなものってあるんですけど、やっぱりそれは、よくできたCGっぽく見えちゃう。その中にスーパーヒーローがいたり、不思議な現象が起こったり、あまりにも能力が高いやつが出てくると、どうしても嘘の世界っぽい要素が入ってくるんです。
でも『ジョーカー』は違う。
よくできたCG映像と、ちゃんとしたロケ映像の差があるんですよね。とにかく、世界のリアリティと没入感がすごい。
「悪のカリスマ」を期待すると外す
ただし、見に行くには注意が必要で。たとえば映画紹介文では、ジョーカーを「恐るべき狂気で人を恐怖に陥れる悪のカリスマ」と書いているんですけど、これが微妙に嘘なんですよね。
ここを期待して見に行く人がわりと多いんですけど、だいたいそういう人はがっかりする。
実際、評価欄を見ても、4.5とか5の「ものすごい良かった!」という人と、2とか1の「なんだ、つまらない、寝ちゃった!」という人に、極端に分かれるんですよ。
その理由は単純で、「悪のカリスマ」という言い方に過剰な期待をした人はがっかりするし、そこをあんまり期待していなかった人は逆にめちゃくちゃ衝撃を受ける映画だからです。
『ダークナイト』のジョーカーが好きな人は多いですからね。
映画史上最高の悪役とか、悪のカリスマと言われているあのジョーカーの誕生を見に行っちゃう。でも、そういう路線を期待するとズレるんです。
『ジョーカー』は「悪のカリスマ映画」ではない
僕はこれを「羊たちの沈黙現象」と呼んでいるんです。
悪というのは何か深い理由がある。ヒーローは平凡でつまらない。でも悪には、そういう平凡なヒーローには決して届かない深みがあるに違いない。
レクター博士みたいな存在は、そういうのが好きな人にとって、本当にリアルな意味でヒーローだったんですよ。誰よりも頭が良くて、教養が深くて、おしゃれで、芸術にも詳しい。そんな完全無欠の人が悪人だったら、どんなにスカッとするだろう、っていう。
でも実際の凶悪犯罪って、裁判記録やドキュメンタリーを見ればわかるんですけど、犯人の証言があまりに単純で乱暴な場合がほとんどなんですね。テッド・バンディみたいな例外はあるけど、シリアルキラーのほとんどは、退屈で平凡な、単なる乱暴者のおっさんなんですよ。
つまり、実は悪というのは凡庸でつまらない。
それに対して、正義というのは残酷で多様なんですね。
だから、『ダークナイト』のジョーカーみたいな「かっこいい悪のカリスマ」は、もともとかなり無理設定なんですよ。あんなに部下を裏切って、使い捨てにして、それでも子分がついてくるはずがない。でも、みんなそこを本気にしちゃう。
悪に憧れる人は多いんですけどね。
すごい悪のカリスマがいて、忠実な手下がいて、暴力や恐怖で人を操り、その理屈や思惑に正義の味方も黙るしかない――そういう展開をみんな欲しがっちゃう。
ところが、この『ジョーカー』はそういう映画じゃない。
『ジョーカー』は「悪のインフルエンサー映画」だ
この映画のすごいところは、ジョーカーを「悪のカリスマ」ではなく、「悪のインフルエンサー」として描いているところなんですよ。
悪の象徴として君臨するのではなく、うまく人々に流行させる存在として描いている。だから、それに影響された人たちが勝手に祭りを起こすという、そういう映画なんです。
これ、YouTubeとかインスタのインフルエンサーと、まるで同じなんですよね。
絵としてのリアルと、設定のリアルが両方ある。CGが目立たない映像としてのリアル。インフルエンサーとしての悪を描く設定のリアル。このダブルで迫ってくるから、ヒーロー映画なのに、わりと文芸っぽい高級感が全体から出ている。
色彩設計もすごくて、スーパーマンの青とか、バットマンの黒みたいに、ヒーローものにはシンボリックなカラーがあるんですけど、『ジョーカー』は黄色の出し方がすごくオシャレなんですよね。モノクロっぽい画面の中で、あの黄色いチョッキがものすごく効いている。
それから、パンフレットの表紙にもなっている、アーサーがピエロのメイクをしながら涙を流すシーン。あれ、冒頭の本当に短い場面なんですけど、あそこでこの映画の高さを最初から見せているんですよ。
「笑われるピエロになりたかったんじゃなくて、笑わせるコメディアンになりたかった」。
その本音を押し殺しているから、メイク中に涙が一つ出てしまう。しかもセリフじゃなくて、映像で見せる。ここ、本当にすごいです。
この映画が怖いのは、「自分も悪になるかもしれない」と思わせるから
この映画のアーサーは、善良で悪いことができない人として始まって、最後には明らかに悪い人に変化していくんです。
でもその変化は、悪の魅力のためでもないし、「正義の嘘に気づいた俺が欺瞞を暴く」みたいな、よくあるタイプでもない。
まるでドキュメンタリーを見ているような衝撃なんですよ。
悪のカリスマの魅力に酔いしれるんじゃなくて、「自分も悪になるかもしれない」という恐怖が来る。
交通事故に遭って車椅子生活になるかもしれない。
リストラされて、運が悪ければ貧困に落ちるかもしれない。
そういうドキュメンタリーを見た時の、「これ、自分にも起こるかもしれない」という不安に近いリアリティで、「自分も悪に落ちるかもしれない」という恐怖を描いているんですね。そこが本当に新しい。
普段、自分が悪になるかもしれないなんて想像していない、普通の良い人に対して、「悪になっても仕方がないよ」とか、「その方が楽になれるよ」と誘惑する。
そういう意味で、この映画は悪のインフルエンサー映画なんです。本当に恐怖の映画ですね。
キリスト教における悪魔というのは、悪いことをする化け物じゃないんですよ。悪いことを人に持ちかける存在なんです。悪へと誘惑するものが悪魔なんですね。
この映画のジョーカーは、まさにその行動をしてしまう存在なんです。
『ジョーカー』が描くのは、悪に落ちる人間の「主観」だ

悪に落ちていく人間を描く作品自体は、別に珍しくないんです。
たとえば『まどマギ』だってそうなんですよ。あの作品に出てくる魔女って、みんな悪に落ちていった人間です。
でも『まどマギ』は、魔女になる人間の主観を途中までは描くけど、最後までは描かない。闇落ちしたら、カメラは主人公側、魔法少女側に行って、「なんでそんなことになってしまったの?」とは嘆くんだけど、魔女の気持ちは最後まで描かないんですね。
昔のドラマでもそうです。
落ちていく人間がいたとしても、それを見ている主人公側の無力さや悲しさからしか描けない。
『ジョーカー』は、それを正面からやっちゃった。
つまり、正義の味方がいない世界、ヒーロー不在のリアルな世界で、人が落ちていくというのはどういうことかを、真正面から描いている。
だから、そこにはカッコよさとか美しさは全くないんですよ。
ヒーロー映画を見に行ったつもりで、いわゆる悪の魅力を見に行った人は、やっぱりがっかりする。本当にカッコよさはない。ゴミにあふれたゴッサムシティがあるだけなんです。
ここからネタバレありで見る『ジョーカー』の核心

ここから先はネタバレ込みで話します。
僕のおすすめの見方は、まず『ジョーカー』を見て、そのあと『タクシードライバー』を見て、『キング・オブ・コメディ』を見て、最後にもう1回『ジョーカー』を見る、という順番です。
この理由は最後に説明します。
まず、ネタバレで言ってしまうと、主人公アーサーは天才ではなく、むしろ障害を抱えた人間なんですね。
暴力の影響で脳に障害がある。
彼がいつも持っているネタ帳、あれは日記であり、コメディアンとしてのネタ帳でもあるんですけど、誤字脱字だらけなんですよ。しかも、単に教育されてないからではなくて、明らかに知能に問題があるタイプの文章なんですね。
だから彼は、まともな職にもつけないし、友達もいない。
そこは映画の中ではサラッと描いているんですけど、なんで彼に友達がいなくて、まともな仕事がないのかは、あのノートの文字を見せるところでだいたいわかるようにできている。
「笑いたい」のではなく、「笑わせなさい」と植え付けられている
アーサーは「人を笑わせたい、幸せにしたい」と語るんですけど、これも本音じゃないんですね。
母親から植え付けられたものなんですよ。「人を幸せにしなさい」「そうしている時のあなたは可愛いわよ」っていう、洗脳なんです。
だから、冒頭のピエロメイクのところで涙を流しちゃう。
抑圧されているからです。
それに、彼は意図しない時に笑ってしまう。作中では病気みたいに扱われているんですけど、僕はあれ、単純な脳の機能障害ではないと思うんですよ。
明らかに、自分の本音を押し殺しているから、意図しない時に笑いが出てしまう。
そして最後、人を殺して笑う時には、ちゃんと「思って笑っている」んですね。
あれは解放なんですよ。自分の中で押し殺されていたものが、暴力によって初めて外に出る。
笑いとは、そもそも攻撃性を含んでいる
ここで危険な話をすると、僕は前から「笑いとは攻撃の裏返しだ」と言っているんですけど、僕らはだいたい、ダメな奴とか憎らしい奴がやっつけられた時に笑うんですよ。
ひっくり返すと、いじめる側って、だいたい笑ってるじゃないですか。
いじめられている側は、自分を守るために無理やり笑わされる。
笑いって、ハッピーなものではなくて、実は攻撃性の証明なんです。
だから、お笑いって基本的に危険なんですよ。面白いんだけど危険なんです。
差別やいじめの要素をかなりいつでもはらんでいる。
「お前、バカだなあ!」という一言でも、仲の良い友達同士なら笑いになる。
でも関係性がなければ、それはいじめになる。
じゃあ、アーサーはどうか。
彼には友達がいない。誰からも関係を求められていない。つまり、彼は誰に何を言われても、それが全部いじめになる。逆に彼から誰かに関係を持とうとしても、「気持ち悪い人が変なことを言ってきた」みたいになってしまう。
だから、アーサーはコメディアンになれないんですよ。
笑いを生み出せない。
孤独な人間が社会に参加する方法が「暴力」しかない時

いじめる側になれば笑うことができるので、最終的に彼は社会をいじめる側に回るんですね。
映画の中で、ピエロのマスクをかぶってデモをやったり、暴動を起こしたりする人たちがいるじゃないですか。
ああいう人たちも、みんなアーサーほどではないにせよ、周囲から求められていない人たちなんです。
電車の中にピエロ姿の人たちが乗っているシーンでも、ほとんど誰も会話していない。
あれは何かというと、一人一人が孤独な社会の中で、誰も友達がいない連中だからなんですね。
でも、喧嘩が起こる。誰かが警官を殴る。
その瞬間に初めて、敵と味方が発生する。
そこで彼らは、仲間というものをあっという間に見つけるんですよ。
つまり、これまで社会参加できなかった人たちが、暴力という形でだけ参加できる。
だから街に火をつけたり、暴動を起こしたりできるんです。
男って特に、こういう孤立の仕方をする人がいるんですよ。
友達がいない系の男には、あの映画がめちゃくちゃ魂に来る。僕も魂に来て、たまらなかったですけどね。
アーサーがタクシーの外にピエロを見るシーンもそうです。
あれ、本当にピエロがいたのか、妄想なのかわからないんですけど、タクシーの後部座席には3人いて、2人は話していて、窓の外を見ている1人だけがピエロのマスクをかぶっている。
つまり、3人で移動していても、仲間外れになりがちなやつがピエロになる、ということなんですよ。
「必要とされていない存在だから、お前もおとなしくしてろ」と、いつも言われている人たちが、あの映画の中で暴れる側なんです。
失業率が高くても、街がゴミだらけでも、「頭のいい人たちが解決してくれるから、お前らはおとなしくしてろ」と言われている側ですね。
『ジョーカー』が突きつける、社会の加害者としての自分

僕らは、そういう人たちへの対処法を知らないんですね。
あおり運転する奴とか、歩きスマホしてる女の人に体当たりするような男とか、もちろん嫌な奴なんですけど、ネットではそういう人たちに対してリンチみたいなさらし方をするじゃないですか。
あれも結局、そういう人たちへの恐怖心があるからなんです。
でも、そういう奴らを全部捕まえて、刑務所に放り込めと言えたら楽なんですよ。
ただ、それって「僕らの見えないところに連れて行ってくれ」という意味でもあるんですね。
見たくないから、自分たちの生活を邪魔しないところに押し込めてくれ、と。
それって、この映画の中でアーサーが言われていることと同じなんですよ。
「お前らは邪魔だから、見えるところにいたら困るから、どこかでおとなしくしてくれ」と。
だから、僕らは誰からも嫌われていたり、疎まれていたり、周りから浮いている人に親しく話しかけられたら、逃げちゃうんですよね。無視するか、笑うか、逃げるかしてしまう。
その結果、劣っている者が関係を持つには、友達になるんじゃなくて、恐れられるしかなくなる。
アーサーみたいな人が周りと関係を持とうと思ったら、優しい人を探すよりも、怖がられる方が簡単なんです。
昔、落ちこぼれが暴力団に入ったというのは、ある意味で自然なんですよ。
クラスの中で暴力を振るっていると、そのうち周りから浮いて、誰も相手してくれなくなる。そうしたら、もうビビられる場所で関係を作り直すしかなくなる。
『ジョーカー』がアメリカで過剰に恐れられたのも、そこなんですよ。
映画館で暴動が起こるんじゃないか、銃乱射が起こるんじゃないか、とか言われた。実際にはそんなことは起きていないんですけど、それでも「こんな映画をやったら、ああいう人たちが一斉に暴れるに違いない」と恐れた。
それだけ、あっちの社会には、そういう人たちを押さえつけてきたことへの、意識化されていない罪悪感みたいなものがあるんですね。
そして映画館で『ジョーカー』を観ている僕らは、なんだかんだ言ってもジョーカー側には立てない。
お金を払って映画館に行ける余裕もあるし、知性もある。だから完全にはジョーカーの側ではない。
でもその一方で、僕らの誰もが、面倒くさい人とか、嫌な感じのする人を切り捨てた覚えがあるんですよ。
つまり、加害者の側の視点で『ジョーカー』を観ることになる。そこがドキドキするんですね。やましいんですよ。
しかも映画の中では、アーサーをいじめる人たちもまた、いじめられた仕返しをしているだけだというのがだんだんわかってくる。
自分より弱い相手に、自分が受けた痛みを返しているだけなんです。
ストリートチルドレンもそう。地下鉄でアーサーをいじめるエリート社員もそう。
彼らだって、もっと上の何かにこき使われ、排除されている側なんですね。
この世界のすべては、不当にいじめられた奴が、自分より弱い奴をいじめ返して笑う、その連続で成立している。
じゃあ一番下で、いじめられるだけ、笑われるだけの人間はどうすればいいのか。
この社会そのものを破壊すればいい。
そうすれば少なくとも、笑われる側から笑う側に回れる。
こういう、とんでもないメッセージを隠した映画が『ジョーカー』なんです。
ラストシーンは、バットマンをひっくり返す

ラストは本当に切ないですよ。
アーサーには、母親から与えられた「ハッピー」という名前があるんですけど、それを捨てる。
本当は父親になってほしかったトーマス・ウェインには否定される。
もう1人の父親になってほしかった存在、コメディアンのマレー・フランクリンには、「ジョーカー」という名前を与えられる。
彼はそのマレーを殺すんだけど、それでも、その名付けてもらった「ジョーカー」という名前を以後、忠実に名乗るんですね。
なかなかきつい話なんですよ。
母親を殺して、マレーを殺して、トーマス・ウェインもジョーカーの影響の中で死んで、やっと彼は「笑いたい時に笑える人間」になる。
そしてラストの謎。
あれは、「バットマンというのは、ジョーカーの妄想だったんじゃないか?」という話でもあるんですね。
もし俺の人生がこういう話だったら、最高に笑える――。
その想像の中で、バットマンというヒーローが最後に現れる。
つまり、正義の味方がいるから悪役が必要なんじゃない。
悪役があるから、その相手役として、マヌケで気の毒なヒーローが必要なんだ、という再解釈なんです。
俺ひとりで悪をやっていてもつまらない。
だったら俺みたいな存在には、銭形みたいな、気がいいんだけどマヌケで愛すべき存在のバットマンが必要だ、と。
だから俺はもう、笑われるんじゃなくて、自分の好きな時に笑う。
笑われるのは、お前の方だ――というメッセージになる。
ここで、バットマンファンは強い衝撃を受けるし、強く反発するわけですね。
『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』を見てからもう一度『ジョーカー』を見てほしい

最初に言ったおすすめの順番に戻ります。
『ジョーカー』を見て、『タクシードライバー』を見て、『キング・オブ・コメディ』を見て、もう1回『ジョーカー』を見る。この順番です。
『タクシードライバー』も『キング・オブ・コメディ』も、マーティン・スコセッシが監督した映画で、この『ジョーカー』と同じ時代の空気を持っているんですね。どっちもロバート・デ・ニーロが主演です。
『タクシードライバー』とのつながり
『タクシードライバー』は、人との付き合い方がわからないトラヴィスという男が、ずっと自分のやることのメモを取っている話です。テロリストになるまでの話とも言える。
主人公が通う、タクシー運転手のたまり場があるんですけど、『ジョーカー』もそれに合わせるように、ピエロのたまり場に毎日出勤している。そこまで似せるか、と思うんだけど、やっぱりこれのおかげでピエロのシーンが面白くなっている。
家で銃を抜く練習をするシーンもそうです。
アーサーが、誰もいないソファーに向かって銃を構える。あのソファーって、いつも母親が座っている場所なんですよ。そこに向けて銃を向けるのを見た時、映画館でゾゾゾッとして、「すげえ映画撮ったな」と思いました。
『キング・オブ・コメディ』とのつながり
もう1本の『キング・オブ・コメディ』は、妄想癖のある男がコメディアンを目指す映画です。
コメディアンになりたくて、有名なテレビ司会者を誘拐しちゃう話なんですね。
この妄想と現実の混乱構造が、『ジョーカー』の本当の元ネタになっている。
『キング・オブ・コメディ』で、妄想と現実の区別がつかなくなって、「ラスト、これどっちなんだ?」という感覚を経験しておくと、『ジョーカー』を2回目に見た時に、頭の中にストレートに入ってくるんです。
だから、『ジョーカー』だけだとちょっとわかりにくい部分が、この2本を見たあとだとすごく整理される。
気になったら、この2本を見てからもう1度『ジョーカー』を見に行くと、絶対に1回目と見え方が変わるので、おすすめです。
OTAKING / Toshio Okadaをもっと知りたい方へ
まずはここから。
岡田斗司夫ゼミの無料・限定・プレミアムの違いを、はじめての方にもわかりやすくまとめています。
元動画はこちら
こちらが、今回の記事の元になったYouTube動画です。
要点だけでは伝えきれない話し方や空気感もありますので、
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