『もののけ姫』は“アシタカの旅立ち”の物語である

『もののけ姫』は“アシタカの旅立ち”の物語である

今回は、『もののけ姫』の冒頭10分間を徹底的に分析・解説していきます。

僕のジブリ解説で、こういう「冒頭何分の解説」「徹底解説」をよくやるのは理由があるんです。映画って、だいたい冒頭10分くらいがものすごくよくできているし、宮崎駿のアニメは特に、その10分間で「主人公がなぜそんな行動を取るのか」という動機まで、できるだけたくさん詰め込んでいるんですね。だから、この10分を解説すると、映画がほとんどわかるようになっている。

『もののけ姫』の冒頭もまさにそうで、アシタカがなぜ旅立たなければいけないのか、どんな気持ちで旅立つのか、そのへんがかなり綿密に描かれています。描かれているんだけど、ちょっと見ただけではわからないような構造になっている。それが面白いので、今回はそこを重点的に見ていきます。

そもそも、この映画はタイトルの時点でちょっとズレているんですよ。『もののけ姫』というタイトルなんですけど、宮崎駿は最後までこのタイトルではなく、『アシタカせっ記』にこだわっていた。つまり、これはアシタカが主人公の物語なんです。それを鈴木敏夫さんが『もののけ姫』というタイトルで記者会見しちゃったので、宮崎駿はすごく怒ったというエピソードがあるんですけど、それくらい本当はアシタカを主人公にした話なんですね。

だから、今回の見方としてははっきりしていて、『もののけ姫』を“サンの物語”としてではなく、“アシタカの旅立ちと変化を描く物語”として見る。そのほうが、ぐっとわかりやすくなります。

しかも、この作品は『風の谷のナウシカ』との対比で見ると、かなり見えやすい。『ナウシカ』でやり残したこと、本当はここまで描きたかったけれど、子供向けだから諦めたことを、宮崎駿が「これで引退する」と思いながら全部出しちゃおうとして作った作品なんですね。だから、『もののけ姫』は“ナウシカの裏側をのぞく作品”でもあるわけです。

タイトル画面から見える『アシタカせっ記』という構造

タイトル画面から見える『アシタカせっ記』という構造 土面は“アシタカ伝説”を語る図案である 『もののけ姫』というタイトルが印象を歪めている

土面は“アシタカ伝説”を語る図案である

『もののけ姫』のタイトル画面の後ろにある模様、あれは土面、土の面なんですね。縄文時代の遺跡から発掘される、土で作って軽く焼いたお面みたいなものです。

この模様、ぱっと見ではわかりにくいんですけど、よく見ると、一つ目の怪物に角が何本も生えていて、その上にシシ神の頭のようなものがついている。つまり、これは単なる縄文風の模様じゃなくて、アシタカの物語を伝えた図案なんですよ。

一つ目というのは何かというと、鉄の民です。炉を扱う人たちは、熱い炉を見続けるので片目をつぶしてしまう、だから日本各地に片目・一つ目の怪物伝説が残っている。しかも、その伝説の多くは近くで鉄や砂鉄が取れる土地にある。つまり、一つ目とは鉄の民の記号なんですね。

そこにシシ神の角を受け継いでいるイメージが重なっている。後半で説明されることなんですけど、アシタカは最後、タタラ場に残る。仕事を継いだのなら、当然、片目は失明したと考えられる。一つ目のアシタカ王子が、シシ神を倒したと伝えられ、その角を受け継いでいる。そういう物語が、土面として残っているわけです。

『もののけ姫』というタイトルが印象を歪めている

ここで問題になるのが、やっぱりタイトルなんですよ。これは『もののけ姫』じゃなくて、本来は『アシタカせっ記』なんです。せっ記は宮崎さんの造語ですけど、要するに伝説だと思ってください。アシタカ伝説なんですね。

もし最初から『アシタカせっ記』として見れば、みんな主人公はアシタカだと思って、アシタカの物語を追いかけていく。ところが『もののけ姫』にされちゃった。これのせいで、話の受け取り方がかなり歪んでしまうんです。

たとえば、『風の谷のナウシカ』のタイトルが『大怪獣オーム』だったらどうなるか。「オームを退治する話なんだ」とか、「ラストでオームはどうなるんだ」とか、ゴジラを見るみたいな受け取り方になってしまうでしょう。逆に、『ゴジラ』が『科学者・芹沢の悩み』みたいなタイトルだったら、全然違う文芸作品っぽく見える。タイトルの印象って、それくらい大きいんですよ。

だから宮崎駿は、わざとナウシカと同じ構造のシーンをいくつも入れて、「これはアシタカの物語なんだよ」と注意している。でも、それがあまりにも知的で、頭が良すぎて、僕ら凡俗にはわからない。

『風の谷のナウシカ』では、ナウシカ自身が伝説になっていく姿がタペストリーで示される。『もののけ姫』も同じで、この土面とアシタカの登場がダブらされている。つまり、両方とも“本編ヒーローの紹介”なんです。ただし、『もののけ姫』は「ナウシカはちょっと子供っぽすぎた」という反省のもとに作られているので、めちゃくちゃわかりにくい。

その上、この土面が縄文的な表現になっていることで、「これはエミシの村か、あるいはサンの側の子孫が伝えたアシタカ王子の伝説なんだ」と読み取れるようになっているんですね。つまり、「我らが一族の王子、アシタカ王子の偉大さを思い知れ!」というお面なんです。

ここまできて初めて、タイトル画面からすでにこの映画が“アシタカ伝説”として始まっていたことが見えてくるわけです。

タタリ神の登場から見える、エミシの村と縄文の世界観

タタリ神の登場から見える、エミシの村と縄文の世界観 タタリ神は“土蜘蛛”として描かれている エミシの村は縄文の神々を受け継ぐ世界として描かれている 痣は呪いであると同時に、神々のサインでもある 髷を切ることは、村からの永久追放を意味する

タタリ神は“土蜘蛛”として描かれている

タイトルが終わると、アシタカが登場して、村の端で異変が起きていると聞かされ、見張り台に登る。すると、村の境界線の石垣を破壊して、タタリ神が現れます。

あれは、巨大な猪に、蛇とかミミズみたいな妖怪がまとわりついたような姿をしていて、何本もの足で地面を這い回る。6本足にも8本足にも見えるんですけど、なぜそう見えるかというと、タタリ神自身が“土蜘蛛”を表しているからなんです。

土蜘蛛というのは、もともと天皇家に従わなかった豪族や部族への別称なんですね。「あいつらは土蜘蛛だ」という悪口です。あるいは、日本を魔界にしようとする怪物として、源頼光に退治された存在として語られる。つまり、宮崎駿としては、蝦夷氏族の王子アシタカが巨大な蜘蛛を退治した話が、伝聞で歪められて、後世には権力者に都合よく源頼光の蜘蛛退治になった、というふうに考えているわけです。

これ、宮崎駿一流のジョークなんですけど、高級すぎて伝わらないんですよ。

この『もののけ姫』あたりから、宮崎駿はすごく高畑勲っぽくなっていきます。つまり、「誰にもわからなくても、やりたいことはやる」。前は逆で、『ラピュタ』の頃は、やりたいことを我慢してでも全部わかるように描いていた。ドーラが「こいつを連れて行った方が便利かもしれないね!」って、心の中までしゃべっちゃうくらいにね。

でも『もののけ姫』からは違う。描いていいもの、描いちゃいけないものの線引きをやめて、この世のえぐいものも全部見せる。ただし、わかるようには描かない。だから土蜘蛛のメタファーも、わかりにくいまま置いてあるんですね。

エミシの村は縄文の神々を受け継ぐ世界として描かれている

タタリ神を倒した後、アシタカは社で会合に呼ばれます。この社の作りを見ると、中央に出っ張りがあって、そこが御神体なんですね。そこに向かってヒイ様が祈るようになっている。つまり、この村は“岩そのもの”を神体として拝む巨石信仰の村なんです。

これは、仏教のように人間が作った像や人そのものを拝む世界ではない。もっと古い、縄文的な世界観なんですね。「本当にすごいものは自然の中にある。人間程度のものを拝んでどうするんだ」というメンタリティです。

しかも、その社の奥には縄文土器が見える。これで、この村が縄文人の生き残りとして描かれていることがわかる。『もののけ姫』が作られた90年代当時は、アイヌやエミシは縄文人の生き残りではないか、という説が考古学の周辺でかなり話題になっていた。今は主流ではないらしいんですけど、宮崎さんは完全にそれに乗っかって作っている。だから、この映画のエミシの村は「縄文人の話」だと思って見たほうがいいんです。

痣は呪いであると同時に、神々のサインでもある

アシタカが包帯を外して見せる傷跡のうねうねと、後ろに置かれた縄文土器の模様、それからタタリ神の体を覆っていた蛇のようなうねり。これ、全部同じ系統の造形なんですよ。

さらに、クライマックスに出てくるダイダラボッチの体の中にも、縄文的な模様がずっと動いている。設定資料には「夜空が歩いているようでもあり、歩く縄文土器のようでもある」と書いてある。

つまり、アシタカの右腕の痣は、僕らが映画を見ているときには「苦しみ」や「死の予告」として受け取ってしまうんですけど、本来ここで土器と並べて見せているのは、縄文の神々のサインなんです。呪われたというだけではない。神々によって聖痕、聖なる刻印を与えられたという意味もある。

だから、この痣は、アシタカを死に近づけるものでもあるけれど、同時にものすごい力を与えるものでもある。呪いであると同時に、聖なる力なんですね。

髷を切ることは、村からの永久追放を意味する

アシタカが髷を切るシーンがありますけど、あれはただの儀式ではなく、「一族の者ではなくなる」「二度と帰れない」という意味です。

このとき使う小さな刀だけが、この村にある鉄なんですね。他はほとんど石器文化と青銅文化の間くらいの文明だと思っていい。女の子たちが持っている大きな刃物も、実際には山刀みたいなものです。

なぜそんなことが言えるかというと、もし村人全員が刀サイズの鉄を日常的に持てるほど鉄を生産していたら、その近くに森なんか残っていないからです。鉄はものすごく木を食う。5トンの鉄を作るのに山一つなくなる、と言われるくらいです。だから彼らが持てる鉄は、ごく少量で、たまに作って研ぎ出した貴重品なんですね。

その貴重な鉄で髷を切る。それは、アシタカが“この共同体の次の王”である立場を捨てて、共同体そのものから切り離されることを意味しているわけです。

ヒイ様はなぜアシタカを追放したのか

ヒイ様はなぜアシタカを追放したのか 本当の呪いは「死」ではなく「タタリ神化」である ヒイ様は“厭み返し”としてアシタカを西へ送った

本当の呪いは「死」ではなく「タタリ神化」である

ここが、この映画の最初の大事なポイントです。

ヒイ様は、「西の国で何か不吉なことが起こっている。その地に赴き、曇りのないまなこで物事を見定めるなら、あるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれない」と言います。これを聞くと、僕らもアシタカも「呪いを解くために西へ行くんだ」と納得させられる。

でも、よく考えると変なんです。そもそも追放する必要はないんですよ。タタリ神がいた場所には塚を築いて祀ると言っているんだから、アシタカだって村の中で祀りながら見守ればいいはずでしょう。

しかも、この映画の中の神々は、巨大な力は持っているけれど、死後に呪いを飛ばしたり、超常現象を起こしたりはしない。オッコトヌシもモロも死んだらそれきりで、この世界には“死後の呪い”なんて出てこないんです。

じゃあ何が起こるのかというと、アシタカ自身が次のタタリ神になるんですね。呪いの正体は「死ぬこと」ではなく、「痛みと憎しみに耐えきれなくなって怪物になること」なんです。

最初に襲ってきた猪も、たぶん最初は理性で抑えていた。でも徐々に耐えられなくなってタタリ神になった。アシタカも同じで、これからゆっくりタタリ神化していく。

この後、戦場で矢を放つだけで侍の腕を吹き飛ばしたり、首を落としたりするのもその表れです。アシタカ自身も驚いているけど、彼にはもう常人離れしたパワーが与えられている。後半で巨大な門を一人で押し広げるのも同じです。怒りや悲しみや理不尽への反応が吹き出すと、無限みたいなパワーが出る。

僕らはそれをスーパーヒーロー的に見てしまう。でも本当は違う。あれは“怪物化の途中経過”なんです。この映画には、表向きの物語の下に、「アシタカは最後まで人間でいられるのか、それともタタリ神になるのか」という地下構造がもう一つ仕組まれているんですね。

ヒイ様は“厭み返し”としてアシタカを西へ送った

だから、ヒイ様が怖がっているのは、死んだタタリ神そのものじゃないんです。これからタタリ神になってしまうアシタカのほうなんですね。

ヒイ様から見れば、アシタカはいい子だし、村を継いでいい王になるはずの子なんだけど、もうすぐ痛みと恨みと怒りで怪物になってしまう。その前に村から出すしかない。

さらに言えば、ヒイ様はそれを“返している”んです。この時代の縄文人やエミシの感覚では、呪いを受けたら呪いを返さないと終わらない。そういう厭み返しの発想がある。だからヒイ様は、すごいポーカーフェイスで、「呪いを解く道が見つかるかもしれない」と言いながら、実際には“戦略兵器としてのアシタカ”を西の大和へ送り返しているんですね。

でもアシタカも村人も、それに気づいていない。アシタカ自身、自分が呪いそのものであるとは思っていない。村にこれ以上呪いがかからないようにと思って出ていくんだけど、数週間か数か月後には、自分が次のタタリ神になって西を襲うかもしれない。そういう可能性の中に置かれているわけです。

ジコ坊も、おそらくそれに気づいている人物の一人ですね。アシタカの呪いを見て、西の山にいるすごい神に会えば呪いがなくなるかもよ、と言うけれど、あれも善意だけではなくて、この怪物をもっと大きな怪物にぶつけようという発想がある。

『もののけ姫』は、こういう個々の思惑や戦略を表に出さず、あくまでアシタカの視点だけで見せるように作っている。だから、ものすごくわかりにくい。でも、そのぶん深いんです。

カヤとの別れは何を意味しているのか

カヤとの別れは何を意味しているのか 黒曜石の小刀は“貞操の印”ではなく、関係のメタファーである サンとの関係も、宮崎駿は“描かずに描いている”

黒曜石の小刀は“貞操の印”ではなく、関係のメタファーである

村の出口で、カヤがアシタカを呼び止めて、「いつまでも慕い申し上げます」と言って、黒曜石の小さなナイフを渡します。アシタカも「私もだ。いつまでもカヤを思おう」と返す。

このシーン、アシタカが好かんという人がかなりいるんですよ。ここまで言われて、しかも大事な小刀を受け取っておきながら、後でサンに渡すんですからね。お姉さま方が怒るのもわかる。「呪いが解けたなら、村に帰ってカヤに会いに行けよ」と思うのも当然です。

でも、実はこのシーン、意味が違うんです。ここ、全部メタファーなんですよ。

村の外れに、夜中に女の子が忍んで会いに来る。そして、自分は生涯ほかの男に恋をしないという“貞操の印”を渡す。これ、どういう意味かというと、二人はすでに人目を忍んでセックスしている、という意味なんですね。

宮崎駿はそのセックスシーンを描きたくない。だから、あえて貞操の印である小刀を渡すという象徴で表現している。つまり、「必要なことは全部描く。でも、わかるようには描かない」という今回のやり方が、ここにも出ているわけです。

だから、カヤにはちゃんとアシタカの血筋が残る。最初の土面が「我らが先祖アシタカ王子の伝説」として伝わっているのは、その血筋が続いているからなんです。

サンとの関係も、宮崎駿は“描かずに描いている”

同じことはサンにも言えます。アシタカが看病され、岩屋の中で目を覚ますシーン。サンが無防備に眠っていて、足まで見えている。あの絵コンテを見た鈴木敏夫が「この二人、セックスしましたよね?」と聞いたそうです。

すると、宮崎駿はこういうとき普段なら「違う」「そうだ」とはっきり答えるのに、この件だけは一切答えようとしない。問い詰められると、「そんなのわざわざ描かなくても、わかりきってるじゃないですか」と言ったそうなんですね。

つまり、『もののけ姫』における性の表現は、一貫して“描かずに描く”なんです。夜中に会いに来るだけで、この部族では関係があったとわかる。サンとの距離感も、見ればわかる人にはわかるように作ってある。

だから、「アシタカはカヤを裏切ったのか」という現代的な一夫一妻の感覚で見ると、どうしてもズレる。宮崎さん自身、後で「アシタカは村に帰ったかもしれないし、サンも連れて帰って、両方を嫁にしたかもしれない。それがこの世界だし、王族の話だから」と言っているんですね。

言われてみれば、古代日本の王ならそうかもしれない。でも、言われるまでは思わないでしょう。現代人の感覚で見てしまうから、「何それ」となる。そこもまた、この映画が“現代の倫理”ではなく、“その世界の論理”で作られているところなんです。

旅立ちの朝は、アシタカの絶望を包むために美しく描かれている

旅立ちの朝は、アシタカの絶望を包むために美しく描かれている

アシタカが村を出て走っていくと、夜が明けます。ここで久石譲の音楽が盛り上がって、ものすごく綺麗な朝焼けが広がる。あのシーン、本当に美しいんですよね。

でも、アシタカの心の中は真っ黒です。絶望と怒りと悲しみでいっぱいなんです。「なんで俺がこんな目に遭うんだ?」「村を助けたじゃないか」「女の子を助けたじゃないか」というやりきれなさで、腹立たしくて、悲しくて、震えるくらいなんですね。

ただ、カヤにはそれを見せたくなかった。心配させたくないから、必死でにっこり笑った。あの笑顔は、本当に明るいんじゃなくて、明るく見せようとしている顔なんです。本当は婚約者との永遠の別れなんだから、悲しい顔になるはずなんだけど、悲しい顔をしちゃいけないと思うあまり、逆に必要以上に明るく笑ってしまう。それがアシタカの悲しみなんですね。

だから宮崎駿は、そんなアシタカに“最高の朝”をあげたかったんです。内面は真っ黒でも、世界は美しい。その絶望の中にも、こんな美しいものがあるんだということを見せてあげたい。だから背景には「頼むから最高に綺麗なものを描いてくれ」と言い、久石譲には「ここにすごい音楽を書いてくれ」と頼んだ。

あのシーンには、宮崎さんの心意気がそのまま出ています。男の子が頑張っている時に、世の中の美しさをプレゼントしたい。いい男でしょ、アシタカって。そういう気持ちで作られているんです。

ただ、ここでもタイトルの罪が出る。『もののけ姫』というタイトルのせいで、観客には「地味な婚約者と別れて、これからもっと魅力的な女の子に出会う旅に出るんでしょ?」みたいに見えてしまう。音楽は盛り上がるし、風景は綺麗だし、アシタカがなんだか楽しそうに見えてしまう。でも違うんですよ。あれは、真っ黒な内面を抱えたまま、それでも礼儀正しく、まっすぐ進もうとする男の旅立ちなんです。

この矛盾があるからこそ、『もののけ姫』は何度も見たくなる映画でもあるんだと思います。観客はどこかで「何かおかしい」「単純な話じゃない」と感じて、その違和感を確かめたくて繰り返し見に行った。その結果、動員が伸びていったところもあるんじゃないかと思います。

少なくとも、アシタカは「女の子の心をもてあそんで、小刀を次に好きになった女の子へ渡す最低男」ではない。そこは理解してやってほしいですね。

補足:冒頭に出ている宮崎駿の“リアルさ”と記憶の異常さ

補足:冒頭に出ている宮崎駿の“リアルさ”と記憶の異常さ

無料版のあとに少しだけ補足があって、冒頭でアシタカが弓を射るシーン、ちゃんと弓返りをしているんですね。和弓は撃った瞬間に弦の側が反転するんですけど、あれはかなりの達人じゃないとできない。『未来少年コナン』の頃からこういうところをちゃんとやっている。宮崎駿作品のリアルさって、こういう積み重ねなんですよ。

さらに面白いのが、鈴木敏夫の話に出てくる宮崎駿の記憶力です。小樽のニシン御殿の前で30分でも1時間でも立ち止まって、屋根の形、窓の方式、間取りまで、全部頭の中に叩き込んでしまう。写真も撮らないし、その場でスケッチもしない。ただ頭の中に刻んで、それを何度も反芻する。

『アルプスの少女ハイジ』の取材の時もそうだったらしいんですけど、宮崎駿という怪物の正体は、この“記憶して、反芻する”という異常さなんですね。

だから、僕らみたいな凡人が真似するなら、せめてメモを取ることです。何かを見たり聞いたりしたら、すぐメモする。そして、そのことを何年も反芻して考える。それが、天才に少しでも近づく方法なんじゃないかと思います。