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高畑勲と『かぐや姫の物語』はどういう作品なのか

高畑勲と『かぐや姫の物語』はどういう作品なのか

高畑勲さんがお亡くなりになって、もう2年が経ちました。今回は、その高畑勲さんの遺作でもあり、最後の作品でもある『かぐや姫の物語』を見ていきます。

この作品って、どうしても「平安時代の絵巻物がそのまま動き出したような圧倒的なビジュアルの映画」とか、「現代につながる女性問題を扱った作品」とか、わかりやすいところで解釈されがちなんですよね。もちろん、それも間違いではないんです。でも、高畑勲が本当にやろうとしていたことは、そこだけではないと僕は思っています。

『未来少年コナン』の頃からそうなんですけど、高畑勲って、人間ドラマやテーマの置き方がすごく独特なんですよ。言い方は悪いですけど、報われない作家というか、芸術性が高いがゆえに、なかなか本当にやりたかったことを汲み取ってもらえない、そういう難しい作家なんです。

だから今回は、『かぐや姫の物語』とは一体どんな話なのか、高畑勲はこの物語を通して何を語ろうとしているのかを、実際の画面に映っている絵を証拠にしながら、細かく見ていこうと思います。

視聴者の感想から見える、この作品の受け取られ方

視聴者の感想から見える、この作品の受け取られ方

まず、この作品を見た人たちの感想をざっくり整理すると、だいたい次のように分かれるんですよね。

肯定的な意見としては、

  • 「かぐや姫とじいさんばあさんとの別れが切ない」
  • 「現代の女性へのメッセージに泣いた」
  • 「なんだかわからんが泣ける」

一方で、否定的な意見としては、

  • 「すごいと思うけど、正直おもしろくない」
  • 「登場する男が全員クズ」
  • 「なんだかわからんが、気に食わん」

実際、こういう作品って、最初の竹林のシーンからもう涙が止まらなくなる人もいれば、最後まで「で、これは何なんだ?」となる人もいる。そこがまず面白いところなんです。

ある感想では、作画や動きの気持ちよさ、布の舞い方、赤ちゃんの重たげな挙動、人から物に至るまで全部のリアクションが計算し尽くされていて、見ていて多幸感がある、というふうに語られていました。あのタッチの絵だからこそ成立している、という意見もすごくよくわかるんです。主人公の心情によって線のタッチが変わるところなんかも、やっぱり見事なんですよね。

一方で、その人は同時に、「なぜあんなラストにしたのか」「出てくる男が全員アホに見える」「ものすごい時間とコストと労力を費やして完璧なでんぐり返りをしてみせたような作品だ」とも書いている。これ、すごく象徴的なんです。褒めているのに、どこか引っかかっている。この映画に対する違和感と感動の両方が、そこに全部入っているんですよ。

『火垂るの墓』と同じく、表層の強さがテーマを隠してしまう

『火垂るの墓』と同じく、表層の強さがテーマを隠してしまう 女性問題という読み 絵本が動くような作画

この現象は、『火垂るの墓』の時とすごくよく似ています。『火垂るの墓』って、反戦アニメではないと高畑さん本人も何度も言っているのに、多くの人は「戦争の愚かしさを描いた作品」と受け取ってしまう。なぜかというと、そこに乗っかっている“生クリーム”が美味しすぎるからなんです。

この「生クリーム」っていう言い方、僕すごくうまいと思って借りるんですけど、パフェの上に乗ってる生クリームだけを食べて、これが全部だと思ってしまう、ということですね。

『かぐや姫の物語』で言えば、その生クリームにあたるのは2つです。

女性問題という読み

1つは、女性問題の描き方です。実際、この作品を「現代を生きる女性の物語」だと捉える見方はあるし、それ自体は間違いじゃない。強い衝撃を受けた、これは明らかに現代を生きる女の話だ、と熱く語る人がいるのも当然なんです。

でも、それがテーマの全部ではないんですよね。そこがあまりにも見事だから、みんなつい「これが主題だ」と思ってしまう。

絵本が動くような作画

もう1つは、絵本がそのまま動いているみたいな作画です。こんなの、誰にも描けないですよ。本当に圧倒的です。

ただ、これも美味しすぎる生クリームなんです。すごすぎるから、そこに意識が全部持っていかれてしまう。その奥にある、人間の欲望の歪みとか、超常の構造とか、そういうものが見えにくくなってしまう。

『かぐや姫の物語』は、かなりエロい話として始まっている

『かぐや姫の物語』は、かなりエロい話として始まっている 成長は性的な気配と結びついている タケノコの周囲には男の子しかいない

ここから先は、ちょっと驚くかもしれませんけど、僕はこの作品をかなりストレートにエロい話だと思っています。

一番最初、竹の中から見つかった小さな姫君を家に連れて帰ると、媼が乳を出して育てることになる。これ自体がまず奇跡なんですけど、その乳を吸うことでかぐや姫はまた成長する。この「成長」がどういう場面で起きるのかを見ていくと、かなりはっきりした傾向があるんですよ。

成長は性的な気配と結びついている

たとえば、次に大きくなるのは、カエルを追いかける場面です。ただカエルを追っているだけじゃない。そこには、オスとメスのカエルの抱接、つまり繁殖行動が描かれている。わざわざそこを見せて、その直後にタケノコが急に動き出し、成長するんですね。

そのあとも、村の男の子たちに囃される。おじいさんから「姫」と呼ばれる。捨て丸に抱きかかえられる。男の子たちの前で裸になって水浴びをする。そういう、男の視線や身体的な接触、性的なニュアンスを帯びた場面で、彼女はどんどん成長していく。

これは、偶然じゃないと思うんです。

タケノコの周囲には男の子しかいない

しかも、村の子供たちの場面をよく見ると、タケノコの周囲にはほとんど男の子しかいない。村に女の子がいないわけじゃないのに、画面の上では巧みに外されている。タケノコは、ずっと男の子たちに囲まれて育っているんです。

だから後になって「男社会の中で抑圧された女の子」という読み方をするのは、もちろんできるんですけど、高畑勲はそれと同時に、もっとややこしいことも描いている。つまり、かぐや姫は最初から“男を引きつける側の存在”としてこの世界に置かれているんですね。それは本人の意思というより、かぐや姫という存在そのものに付与された属性みたいなものなんです。

この映画、実はめちゃくちゃギャグが多い

この映画、実はめちゃくちゃギャグが多い 捨て丸とのやり取りもギャグ 5人の貴族のシーンは、ほとんどコント 高畑勲は、笑いすら本気で勉強している

そして、もう1つ見落とされがちなのが、この作品にはギャグが多いということです。めちゃくちゃ多い。

捨て丸とのやり取りもギャグ

たとえば、捨て丸が「お前がどんどん大きくなって、俺たちとは違う世界に行っちまう気がする」と深刻に言う場面。あそこ、完全に盛り上がる告白シーンみたいな空気になるじゃないですか。捨て丸も「これは告られる」と思った顔をする。

ところが、タケノコは「ずっとずっと捨て丸兄ちゃんの子分だよ!」と言う。ここ、明らかにギャグなんですよ。この“外し”で笑わせたいわけです。でも、あんまり笑ってもらえない。

5人の貴族のシーンは、ほとんどコント

5人の貴族がかぐや姫のもとへ押しかけるところなんかもそうです。牛車でカーレースみたいに猛ダッシュしてきて、周囲の庶民を水に落としながら走る。普通に見たら「男の愚かさ」に見えるんですけど、演出的には完全にギャグなんですよね。

さらに、5人を横並びにして順番に言葉を述べさせるところなんて、まるで合コンか『ねるとん』の告白タイムみたいな構図ですし、火鼠の皮を燃やす場面も、完全に間で笑わせる作りになっている。

でも、高畑勲がやると、なぜか笑ってもらえない。絵がうますぎるし、演出が真面目すぎるからなんです。

高畑勲は、笑いすら本気で勉強している

これ、ドキュメンタリーを見るとわかるんですけど、高畑さんの本棚にはユーモアやギャグの本が山ほど並んでるんですよ。イギリスジョーク集とか、日常のユーモアとか、江戸の笑い話とか。本当に真面目に笑いを勉強してる。

それでこの感じになる。もう、ちょっと切ないくらい真面目なんですよね。

「男が全員クズ」に見えるのは、かぐや姫の能力が見えていないから

「男が全員クズ」に見えるのは、かぐや姫の能力が見えていないから

ここがすごく大事なんですけど、『かぐや姫の物語』に出てくる男たちが全員クズに見えるのは、かぐや姫の超常的な能力が理解されていないからなんです。

おとぎ話だから不思議なことが起きてもいい、で済ませてしまうと、この映画はずれて見えてしまう。実際には、超常現象はかなり整理されて出てきています。

かぐや姫の能力と、月からの超常現象

かぐや姫の能力と、月からの超常現象 かぐや姫自身の能力 月から与えられる能力

この映画には、かぐや姫自身の能力と、月から与えられている能力の両方があります。

かぐや姫自身の能力

まず、かぐや姫自身の側には、性的な気配と結びつく成長、男だけに作用するチャーム、怪力と異常な疾走、演奏能力、透明化、飛翔といったものがある。

つまり、ただのか弱い姫じゃないんですよ。地球人にはないような特殊能力をいくつも持っている。

月から与えられる能力

一方で、月の都の側からは、転生、金や衣の供給、幸運、時間巻き戻し、蘇生といった現象が起きている。

翁が半年そこそこで都に大きな屋敷を建て、貴族社会に入り込み、一流の教師を呼び、見合いを成立させているのも、あれ、普通に考えたら無理なんです。だから、翁にも何かしら月の側の力が及んでいると考えた方が自然なんですよね。

チャーム能力が、男たちの行動を歪ませている

チャーム能力が、男たちの行動を歪ませている 5人の貴族は、途中から魔法にかかっている 翁もまた、チャームにかかっている

いちばん重要なのは、かぐや姫のチャーム能力です。

僕、小学校の頃に読んだ宇宙論の本で、重力場の説明がすごく好きだったんですけど、ボウリングの球をゴム膜の上に置くと、その周りの空間が歪んで、ビー玉の進路まで変えてしまう。かぐや姫も、まさにそれなんです。

周囲の人間関係や欲望や決心を歪ませる、強い重力場みたいなものを持っている。

5人の貴族は、途中から魔法にかかっている

5人の貴族が最初にやって来る時点では、ただのスケベ心です。でも、かぐや姫の琴の音を聞き、姿に触れた瞬間から、彼らはチャームの魔法にかかってしまう。

そのことを示すために、蝶が20秒間も飛ぶカットが入るんですね。高畑さんは、あれで「怪しいことが起こっている」と示したつもりなんですけど、いや、高畑さん、それは無理っすよ、と僕は思う。わかる人にはわかるんでしょうけど、普通はなかなかわからない。

でも、あそこを境に、彼らは無理難題を押し付けられても、3年もそれに取り組むんです。命をかけたり、財産を投げ打ったりする。やってることはダメなんだけど、あの熱意は異常なんですよ。つまり彼らは、ただのクズというより、チャームの被害者でもあるわけです。

翁もまた、チャームにかかっている

同じことは翁にも言えます。翁はかぐや姫の幸せだけを願っている。でも、その願い方がずれている。彼女の望みを無視して、自分が思う“幸せ”を押し付けてしまう。

これも、彼が悪い人間だからというより、チャームの影響で知の質が落ちているからなんです。お母さんはチャームにかからないので、比較的フラットに接することができる。でも翁は、まともにかかってしまっている。

だから、彼の愛情もまた現実なんだけど、それがそのままかぐや姫の幸せにはつながらない。このあたりが、本当に残酷なんですよね。

怪力、透明化、飛翔まで含めて、かぐや姫は“か弱い女”ではない

怪力、透明化、飛翔まで含めて、かぐや姫は“か弱い女”ではない 疾走のシーンは心情表現だけではない 能力は男の前で強く発動する 帝の場面では、透明化すら使いこなしている

疾走のシーンは心情表現だけではない

有名な疾走シーンも、ただ「追い詰められた女の怒り」を描いているだけではないんです。貝合わせの貝を怒りで割る。人間の力では割れないものを割る。木戸を吹っ飛ばして外へ出る。山の中を獣みたいに四つ足で走る。

これ、明らかに人間の能力じゃないんですよ。なのに、作画が凄まじすぎるから、全部を心情表現だと思ってしまう。

能力は男の前で強く発動する

琴の演奏もそうです。普段は嫌がっているのに、翁が来ると急に上手くなる。一方で、機織りはいつまで経っても上達しない。なぜかというと、そばにいるのがおばあさんだからなんですね。

つまり、男がいる時だけ能力が上がる。ここまで一貫している。

帝の場面では、透明化すら使いこなしている

帝が会いに来る場面では、トンボが飛んでいる。これも高畑流の、性的な意図のサインなんですけど、正直わかりにくいです。でも、そのあと帝に抱きつかれたかぐや姫は、透明になって逃げる。

ここで大事なのは、帝が謝って「もうしない」と言ったら、彼女は実体化できることなんです。つまり、透明化は偶発的な現象じゃない。彼女はある程度、自分で能力を使えている。

だから、本当は“か弱い女”としてだけ見るのは違う。こんなに強い能力を持ちながら、それでも自分を幸せにできなかった女の子として見たほうが、この作品はぐっと深くなるんです。

月の力が、物語全体をさらに複雑にしている

月の力が、物語全体をさらに複雑にしている

飛翔の場面でも、捨て丸と空を飛んでいる2人の姿が、地上の人間には見えていないらしい描写がある。これだけでも、単なるロマンチックな幻想ではなくて、明らかに超常現象です。

さらに、月の力は時間の巻き戻しや蘇生にまで及ぶ。雪の中で倒れて、いったん死んでいるはずなのに、飛天が舞い、気づけば服も元に戻り、部屋で目を覚ましている。あれは夢なんじゃなくて、時間が戻され、さらに蘇生までされているんです。

捨て丸との駆け落ち未遂も同じです。月が介入して、出来事そのものをなかったことにする。でも、記憶や痕跡は残る。捨て丸だけはぎりぎり助けられている。ここまで来ると、かぐや姫の「私は私らしく生きたい」というセリフだけをテーマとして受け取るのでは、全然足りないんですよね。

『かぐや姫の物語』は、セリフと絵の二重構造でできている

『かぐや姫の物語』は、セリフと絵の二重構造でできている

結局、この作品は、セリフで語っているテーマと、画面の中に実際に描かれている構造を、両方見ないと本当にはわからないんです。

女性問題はたしかにある。男たちの愚かさもたしかにある。けれど、それだけじゃない。かぐや姫自身が超常的な存在で、周囲を歪ませる力を持ち、しかも月というさらに大きな力に管理されている。その複雑なレイヤーの上に、「私らしく生きたい」という願いが乗っている。

だから、この作品は単純な感想文では終わらないんです。見たままに泣けるし、見たままだとわけがわからない。でも、絵に埋め込まれた証拠をひとつずつ拾っていくと、ものすごく精密で、ものすごく意地悪で、ものすごく高畑勲らしい作品だということがわかってくる。

宮崎アニメみたいに「見たら面白い」という責任を高畑勲は取ってくれません。そうじゃなくて、「本物であること」に責任を持っている。だから、ディズニーランドのつもりで行くと、神社に来てしまったみたいなことになる。アトラクションはない。でも、その構造や意味を読み始めると、急にすごく面白くなってくる。

そういう意味で、『かぐや姫の物語』は、最後の作品だけあって、とんでもなく複雑で、とんでもなくよくできた映画なんですよ。整っているのに、わかりやすくはない。見事なのに、気持ちよく消費させてくれない。その面倒くささまで含めて、高畑勲なんだと思います。