※本記事は、YouTube動画の内容をもとに文字起こしを行い、話し言葉や誤変換を整理したうえで、要点が伝わるようにまとめています。
内容理解を目的としており、発言をそのまま再現したものではありません。
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『火垂るの墓』は、戦争の悲惨さや兄妹のかわいそうさだけで語られがちな作品です。ですが本文では、冒頭5秒の構造、ラストシーンの意味、清太の無表情や行動の描かれ方を手がかりに、高畑勲が本当に描こうとしたものを読み解いていきます。
なぜこの作品は「反戦映画」ではないのか。なぜ清太と節子は現在の神戸を見下ろしているのか。タイトルにあるホタルは何を象徴しているのか。作品を細部から追いながら、『火垂るの墓』の見え方が変わる論点を整理します。
『火垂るの墓』は「かわいそうな話」では終わらない

こんばんは。岡田斗司夫チャンネルのアップデート再放送です。
2018年4月に公開した『火垂るの墓』の解説動画が、このたび100万再生を突破しました。一応、僕の動画としては初のミリオン再生です。なので今回はそれを記念して、『火垂るの墓』の解説をアップデートして再配信します。
最初に、この動画で何を話すのかだけ先に言っておきます。無料部分だけでも50分ある長い解説なんですけど、一言で言えば、『火垂るの墓』を「戦争反対の映画」だとか、「戦争の悲惨さを訴える映画」だとか、「節子や清太がかわいそうな映画」だと思っている人が、すごく多い。今でも本当に多い。でも、高畑勲が描こうとしたのは、そういうことじゃないんです。
僕はこの動画の中で、映画に映っているものを一つ一つフリップで出しながら、「なんでこんなものが入っているのか」を検証していきます。アニメ解説としてはちょっと珍しいやり方かもしれませんけど、僕の解説法としてはわりとスタンダードです。
なぜいまアップデート解説をやるのかというと、前の動画でもかなり言ったつもりなのに、コメント欄では相変わらず「戦争の悲惨さの話だ」とか、「おばさんが悪い」とか、「いや清太が悪い」とか、悪いこと探しになってしまうことが多いからです。そういう感想を持つのは人間だから仕方ない。でも、高畑勲が何を描こうとしたのかを少し考えて受け取らないと、もったいないんですよね。
今回の解説では、まず作品中最大のミステリーである「冒頭5秒の謎」から始めます。次に、なぜ高畑勲がこんなトラウマアニメを作ったのか。そもそも彼はどういう目的でアニメを作る人なのか。3つ目に、『火垂るの墓』というタイトルの意味。最後に、この作品のテーマは何か。そういう順番で語っていきます。
きっと、この作品そのものの見え方が変わるはずです。
多くの人が見落としているラストシーンの意味
まず、みんなが『火垂るの墓』をどういう話だと思っているのか、そこから始めます。
日テレの公式サイトにあるあらすじを読めば、話の流れ自体はその通りなんです。昭和20年9月21日の夜、神戸三宮駅で清太が息を引き取る。3か月前の空襲で母を失い、節子と二人で親戚の家に身を寄せるが、やがてそこを出て、池のほとりの横穴で暮らし始める。けれど食べるものがなくなり、節子は衰弱死し、最後は清太も駅で死ぬ。
実際、多くの人はこの「大まかなストーリー」だけを作品の全体だと思っています。僕は金曜ロードショーで『火垂るの墓』のハッシュタグをずっと追って、後でまとめも見たんですけど、本当にそれが多かった。
でも、この映画の基本中の基本として、ラストに清太と節子が今の神戸の街を見下ろしているシーンがありますよね。節子は眠っていて、清太だけが繁栄した神戸のビル街を見ている。あれを「死んだ二人が今も霊となって神戸を見下ろしている」と受け取っている人もいれば、そもそもあのシーン自体をあまり覚えていない人もかなり多い。
僕にとっては、このラストシーンで終わること自体がこの映画のすごさだと思っていたので、そこを見落としている人が多かったのはかなり驚きました。
ただ、今回の解説はそのレベルでは終わりません。もっと細かく見ていきます。
冒頭5秒に隠された構造

『火垂るの墓』は過去の話ではなく「現在」から始まっている
冒頭の流れを整理します。
真っ暗闇の中に、カメラ目線で真正面を向いた幽霊の清太が現れて、「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」と言う。その幽霊の清太が見下ろす先に、死にかけている自分がいる。ハァハァと細かい息をしていたその自分は、やがて崩れ落ちる。駅員がやってきて遺品を探ると、ポケットからドロップ缶が出てくる。それを放り捨てると、中から遺骨がこぼれ、季節外れの蛍が舞い上がる。そこから節子が現れ、死んだ兄のもとへ駆け寄ろうとすると、後ろには生きていた頃の優しい清太がいて、二人は手をつないで蛍の草原を歩いていく。そして同じ位置に『火垂るの墓』というタイトルが出る。
ここまでもう泣けるんですけど、よく見ると、この冒頭にはまだ隠されていることがあるんです。
ワンカットずつ見ると、清太が「僕は死んだ」と言って視線を右下に落としたあと、柱の手前に何かが映っている。これがスッと消えてから、死にかけている自分のカットに流れる。その「何か」を引き伸ばして見ると、実は灰皿なんですよ。
しかも、その灰皿は戦前のデザインではなく、映画公開当時の現在の灰皿なんです。ブルーレイに収録されているロケハン写真を見ても、柱の横に同じデザインの灰皿がある。つまり『火垂るの墓』は、過去から始まって最後に現在へ戻る話じゃない。最初から現在なんです。
清太の霊は、1988年の三宮にいまだにいて、そこで最後の3か月を何億回も何億回もリプレイしている。苦しみながら、ずっと見返している。そういう構造になっているわけです。
だからこの作品は、「かわいそうな兄妹の話」ではなく、「なぜ清太は43年たってもなお、こんなふうに自分の最期を繰り返し見なければならないのか」というミステリーなんです。
高畑勲としては、「ちゃんと冒頭で灰皿を映してるじゃないか、わかるでしょ」と思っていたのかもしれません。でも、こんなの普通は気づかない。実際、金曜ロードショーの感想でも、そこに触れている人はほぼいなかった。
人は「こんな話だろう」という予断で映画を見るから、大事なカットを見逃してしまうんです。「戦争が悲惨だった話だ」とか、「おばさんが意地悪だった話だ」とか、そういう予断で見てしまうから、本当に大事なところが入ってこないんですね。
清太はどう描かれているのか

節子の死後に残された食べ物が示すもの
後半、節子が栄養失調で死にかけている場面で、清太は最後の貯金をおろして米や卵を買い、卵と鶏肉の雑炊を作ります。しかし、節子はその雑炊ができあがる前に死んでしまう。
その翌朝、節子を火葬しているあいだに映る洞窟のカットがあるんですが、そこに土鍋と箸と、貝で作った手作りのさじが、使われた状態で残っているんです。つまり、清太は食べているんですね。
普通に見ていると、その前に「節子が食べられなかった雑炊」が強烈に印象に残るから、まさかそれを清太が食べたとは思わない。でも、高畑勲はわざわざ、空になった食器を描かせている。
さらに、節子が一口しか食べられなかったスイカも、火葬の場面ではかなり食べ進められている。これも、「アリが食べたんじゃないか」と言う人がいたんですけど、清太が最初に切り分けた形から考えると、そうはならない。やっぱり清太が食べている。
ここがすごく残酷なんですよね。でも同時に、妙に人情でもある。スイカのいちばん甘い山のてっぺんの部分だけは節子にあげていて、それだけは清太も食べていない。節子が「おいしい」と言った、その一切れだけは手をつけていない。そこに兄としての情も残っている。
けれど全体として見ると、清太は節子が死んだあと、案外意識がはっきりしていて、食欲が戻って、ご飯を食べている。つまり、高畑勲は「生きるための欲」をちゃんと描いているんです。
無表情は「深い悲しみ」ではなく、人間性の崩壊かもしれない
節子が死ぬ前、清太は節子の言葉でワンワン泣くんです。「お母ちゃん、もう死にはって、お墓の中にいてるねんて」と聞かされれば号泣する。
ところが、いざ節子が死んだあとは、ほとんど泣かない。一晩遺体のそばにいる時も、火葬する時も、顔は無表情のままなんです。炎の照り返しで目の中だけ赤く揺れている。
この無表情に対して、観客はつい「悲しみをこらえているんだ」と思ってしまう。でも、それはクレショフ効果かもしれない。無表情の顔のあとに死体や火葬のシーンが続けば、観客はそこに勝手に悲しみを読み込んでしまうんです。
宮崎駿はこういうクレショフ効果を嫌う人で、キャラクターに演技やセリフをつけて「この人はこういう人です」と伝える。たとえば『ラピュタ』のドーラは、セリフでも行動でも、ちゃんと「いい人だ」とわかるように描かれている。
でも高畑勲は違う。キャラクターに全部しゃべらせない。無表情を置いて、観客に考えさせる。
そして僕は、このときの清太は「悲しみをこらえている」のではなく、すでに人間性をかなり失っているんだと思うんです。妹が死んでも腹が減る。雑炊を食べる。スイカも食べる。「もう世話をしなくていい」と、どこかでホッとしてしまう。
これは実際、原作者の野坂昭如自身が語っていることでもあるんですよね。「妹が死んだ時、正直ホッとした。そんな綺麗な人間じゃない」と。それを高畑勲に「映画で描いてくれ」と頼んだ。
だから、妹を焼くための炭を買いに行く清太は淡々としている。連合艦隊が沈んだと聞いた時には殴りかかるほど興奮した清太が、「裸にして豆がらと焼いたらよう燃えるわ」と言われても、心が動かない。人間性が壊れていっているんです。
ただし高畑勲は、その証拠は出すけれど、露骨には強調しない。ガツガツ食べる場面を見せたりはしない。そこがこの人の上品な演出でもあるし、同時にわかりにくさでもある。
高畑勲はなぜこういう映画を作ったのか

泣かせるためではなく、考えさせるための映画
高畑勲は、そもそも観客を泣かせようと思って映画を作る人じゃないんです。『母をたずねて三千里』の企画書にも、「お涙頂戴を作るつもりは全くない」と書いている。でも、実際に見た人は泣く。ここで高畑さんは、わりと観客理解を間違えるんですよね。
『漫画映画の志』でも、高畑勲は「日本のアニメは観客をハラハラドキドキさせ、感動させる方向に進化した。しかし自分が作りたいのはそうではない」と書いています。『火垂るの墓』についても、「観客にどっぷり感情移入してもらうのではなく、少し引いた視点で、主人公を批判的にも見てもらいたい」と言っている。
つまり高畑勲にとって『火垂るの墓』は、観客が清太にベッタリ感情移入して、ただ泣いて終わる映画ではない。少し上から、俯瞰で見られるように作っているつもりなんです。
でも、現実にはみんな泣いてしまう。『火垂るの墓』に関しては、泣くのに忙しくて、引いた視点で見てない。僕みたいな、サイコパス野郎だけが「あ、こいつ、妹のスイカや雑炊、きっちり食っとるわ」と見ているわけです。
ここで僕が思うのは、高畑勲は絵の力をちょっと甘く見てるんですよ。自分では「感情移入できないように作った」と思っていても、あれだけ可愛く描かれたら、観客はもう感情移入してしまう。自分では演出で制御できると思っているけど、絵そのものが持つ力を計算に入れ損ねているところがある。
『火垂るの墓』はエンタメではなく「文芸」として作られている
『火垂るの墓』がこれほど伝わりにくいのは、この作品が文芸だからでもあります。
鈴木敏夫の本『仕事道楽』に、『トトロ』制作中の面白い話が出てくるんです。高畑勲が『火垂るの墓』をやっていると聞いて、宮崎駿が「僕も文芸をする」と言い出した。猫バスなんて出したら文芸じゃない、コマに乗って空を飛ぶなんてバカなことはやめる、と言い出した。鈴木敏夫が困って高畑勲に相談したら、高畑さんは「猫バス、もったいないですね」と言った。それを聞いた宮崎駿が急に機嫌を直して、「じゃあ猫バス出します」となった。
ここが大事で、宮崎駿はキャラの魅力やセリフの力で、観客にわかるように作る。たとえばドーラがいい人だということも、ちゃんと伝わるように設計してある。これはエンターテインメントなんです。伝わることが大事だから。
でも文芸には、「わかりやすいキャラ」という概念がない。何を考えているのかわからない人物を前にして、読者や観客が「この人は何を考えているんだろう」と考える。そのために作られている。高畑勲は『火垂るの墓』を、そういう文芸アニメとして作っているんです。
だから僕は、「高畑勲、観客に甘えすぎ説」を唱えているわけです。
『かぐや姫の物語』でもそうでした。キャッチコピーに「姫の犯した罪と罰」と書いてあるけど、映画だけ見てそれがわかった人はほとんどいないと思う。本来は冒頭に、月の王がかぐや姫に罪と罰を告げるシーンがあったのに、高畑勲は「こんなのなくても見ればわかる」と言ってカットしてしまった。結果、わからない映画になった。
鈴木敏夫はもう、高畑さんが「観客にはわかる」と言い出したら止められないから、だったらその「見ればわかるはずのテーマ」自体を宣伝コピーにして、客に考えさせるしかないと思った。ところが公開後は、みんな絵や映像ばかり褒めて、テーマはやっぱりズレて伝わった。
高畑勲は、泣かせたいわけじゃないし、感動させたいわけでもない。悩んでほしいんです。なんで節子は死ななければいけなかったのか。なんでおばさんは意地悪なのか。なんで清太は死ぬのか。毎晩考えてほしい。一年考えてほしい。そういうふうに人を長く悩ませるものとして、文芸を考えている。
ただ、その「考えさせる技術」自体は、押井守や庵野秀明のほうがよほど上手い。中身は高畑勲のほうがずっと濃いんだけど、「なんでだろう」と思わせるテクニックはあの二人のほうが何百倍もうまい。だから高畑勲は、自分の思った通りには伝わらないんですね。
『火垂るの墓』というタイトルとホタルの意味

ホタルは「死ぬ前に最後の光を放つもの」として描かれている
『火垂るの墓』というタイトルは何を意味しているのか。
作中でホタルが初めて明確な意味を持つのは、清太と節子が洞窟で暮らし始めた頃です。夜、上空を飛ぶ飛行機の小さな点滅を見て、清太が「あれは敵に自殺攻撃をかける飛行機だ」と言う。すると節子が「ホタルみたいやね」と言う。
つまり、この作品のホタルは最初から、死ぬ直前に最後の光を放つ存在なんです。
そのあと、清太は節子のためにたくさんのホタルを捕まえて、蚊帳の中に放ちます。このシーンでは構図も意地悪で、蚊帳の中のホタルが、まるで遺影の額縁みたいに見える。光っているものが、最初から死を暗示するように撮られている。
しかもその夜、清太が思い出すのは、父が参加した連合艦隊の観艦式なんですよね。夜の海でライトに照らされた艦隊は美しい。でも、その艦隊の「摩耶」はもう、この物語の1年近く前に沈んでいる。
この作品では、光るものはだいたい死んでいる。特攻機も、ホタルも、連合艦隊も、死にゆくものだからこそ美しい、という描かれ方をしているんです。
ホタルを見る兄妹の目線そのものが、すでに残酷でもある
翌朝、節子はホタルの死骸を集めて墓を作り、「お母ちゃんもお墓の中にいてるねんやろ」と言う。ここで清太は号泣する。このシーンを「かわいそう」で受け取る人は多いんですけど、高畑勲はそのかわいそうなシーンで、あえて大量のホタルの死骸を見せる。
なぜか。
ホタルにとって、清太と節子もまた、無慈悲で不条理な存在だからです。もちろんホタルは光り始めたら数日で死ぬ生き物だけど、だからといって慰めのために蚊帳の中へ閉じ込められていい理由にはならない。節子にも、「ホタルかわいそうやから逃がしてあげよう」という発想はない。
つまり、人間がホタルを美しいものとして愛で、閉じ込め、死なせる。その残酷さと、戦争が人間に対してやっていることが、等しいものとして描かれている。
冒頭で、幽霊の清太と節子が火の海を見つめるシーンもそうです。あれは「つらいね」「悲しいね」と見ているのではなく、ホタルを見る目線なんです。火が垂れ落ちるから『火垂る』。命が燃えていて、美しい。だけど残酷だ。
だから高畑勲は、何度も「これは反戦映画ではない」と言い続けるんです。戦争を悪として断罪する話ではなく、人間が美しさの中に残酷さを見てしまう、その構造そのものを描いている。
この作品のテーマは何か

反戦でも告発でもなく、清太という存在の「煉獄」
高畑勲は、泣かせる映画が嫌いなのと同じように、「反戦映画を作るつもりもない」とはっきり言っています。三鷹市の平和集会でも、『火垂るの墓』を見て反戦だと言う人がいるけれど、そんな効果はない、と語っている。
どれだけ悲惨な戦争を見せても、人は「こんな思いをしないために軍事力が必要だ」と考えることがある。高畑勲は、日本人というのをそのくらい冷たく、現実的に見ているんです。
では何を描こうとしたのか。
高畑勲自身の言葉をまとめれば、これは「困難に立ち向かって生き抜く立派な少年少女」の話ではない。社会的なつながりを煩わしく感じ、自分たちだけの小さな世界を作ろうとした、心優しい現代の若者のような清太が、戦時中という環境の中ではそれをやりきれずに死んでいく、その悲劇なんです。
実際、冒頭の駅のシーンでは、野垂れ死にしかけている清太に、おにぎりをくれる人がいる。つまり、あの時代にも、頭を下げて頼めば助けてくれる人はいたんです。だから高畑勲は、冒頭の時点で「これは戦争のせいだけではない」「時代のせいだけではない」と、言い訳できないようにしている。
なぜ母親の霊は出てこないのか
僕がこの作品のテーマを考える上で、ずっと気になっているのは、なぜ母親の霊が出てこないのかということです。
節子はあれほど母親に会いたがっていた。清太だって父や母に会いたかったはずです。だったら最後、幽霊として再会する場面に母親や父親が出てきてもいいはずなんです。親子4人で写真を撮るシーンまであるんだから。
でも、出てこない。いるのは清太と節子の二人だけです。
僕はこれが、この作品のいちばん大事なところだと思っています。
つまり清太は、母親のいるような天国には行けない。だからといって、地獄に落ちるほどの悪人でもない。この中間にあるのが、ダンテの『神曲』でいう煉獄です。苦しみによって罪を清められたあと、ようやく天国へ行ける場所。
清太はそこに囚われている。だから1988年の「現在」にも、いまだに自分の過去の過ちと、死んでいく妹の姿を延々と見せつけられている。
高畑勲はこれをわかっていて、「気の毒にも、彼は繰り返すしかない」と書いているんですよね。冷たいんだけど、たぶん本気でそう思っている。
だからこの映画は最初から、「煉獄に閉じ込められた少年」の話として始まっている。一番最初に三宮駅の現在を見せるのも、そのためなんです。
このアニメで、清太がまっすぐ観客を見るのは二回だけです。最初の「僕は死んだ」の場面と、ラストで節子が膝の上で眠ったあと、一度だけ観客のほうを見る場面。
なぜ節子が起きている時には見ないのか。なぜ眠ったあとにだけ、こちらを見るのか。
この理由が、たぶんこの作品の中でいちばん怖いところです。
節子を殺したのは誰か。時代のせいだ、おばさんのせいだ、清太のわがままのせいだ、いろいろ言える。でも、じゃあ、なぜ清太は死ななければならなかったのか。そこに、この映画の本当の怖さがあるんだと僕は思っています。
OTAKING / Toshio Okadaをもっと知りたい方へ
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