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『となりのトトロ』は、子どもがそのまま楽しめる作品として親しまれていますが、大人の目で見ると、ネコバスやススワタリ、トトロそのものに込められた設定や思想がまったく違って見えてきます。
この記事では、ネコバスを「化け猫」、ススワタリを「付喪神」として捉える見方を入り口に、トトロを可愛い生き物ではなく「古代神」の生き残りとして読み解いていきます。さらに、縄文土器やコマの設定、日本列島や森の変化、人間との関係をたどりながら、『もののけ姫』や『風の谷のナウシカ』とのつながりまで整理します。
『となりのトトロ』を子ども向け作品としてだけ見ないために

『となりのトトロ』って、宮崎アニメの中でも、子どもたちが大好きな作品として広く受け入れられているんですよね。ぬいぐるみみたいに可愛いキャラクターがいて、「君たちの身近にもこんな不思議な生き物がいるんですよ。公園とか山の中とか、そういうところを散歩してみませんか?」というメッセージもある。だから、自分の子どもに見せたいアニメ、見せるべきアニメとしての地位も確立しています。
ただ、その見方はもちろん正しいんですけど、それだけじゃないんです。子どもはそのまま楽しめばいい。でも、一緒に見ている大人、親とか、高校生以上、大学生以上の世代になると、「ここを見てほしい」というポイントがものすごく多い。わりと多層構造的というか、レイヤー構造になっている作品なんですね。
宮崎駿自身も『となりのトトロ』について、「今まで作った映画の中で一番理屈が多い作品」と語っている。感情感覚で作っているように見せながら、実はギリギリまで理屈を組んで作っている。その理屈の正体は何なのか。今回のテーマは、単なるトトロ特集じゃなくて、『となりのトトロ』のダークサイドです。子どもにはそのまま楽しんでほしいけど、大人だけがこっそり楽しめる『となりのトトロ』の話をしていきます。
ネコバスとススワタリに見る、宮崎駿流の妖怪観

ネコバスは「化け猫」である
まず、ネコバス、ススワタリ、トトロ。この3種類のお化けは、実は全部違うんですよね。
ネコバスは何かというと、人を化かす化け猫なんです。あの異常なまでの擬態、ウィンカーみたいなネズミ、ドアが自動ドアみたいに開いて、中には座席があって、つかまり棒まである。トトロやススワタリとは別レベルの作り込みですけど、あれは当たり前で、化け猫だからこそ、人間にバレないようにディテールまで真似ているんです。
宮崎駿の設定では、今はバスに化けているけど、江戸時代には駕籠に化けていたそうです。人を騙して遊ぶために、暗くなってから駕籠に乗せて、気づいたら鎌倉まで来ていた、みたいないたずらをする。つまりネコバスは、怖がらせるための妖怪ではなくて、まず化けたがりで、次に人を騙していたずらしたい生き物なんですね。『めいとこねこバス』では電車や船にまで化けているんですけど、あれも全部その延長です。
ここに、宮崎駿流の妖怪観が出ています。いわゆる水木しげる的な、「怖い妖怪」「細密に描かれた恐ろしい怪異」ではない。妖怪というのは、もっと面白くて、いたずら好きで、人間とすれ違いながら存在しているんじゃないか。ネコバスは、そういう意味で、宮崎駿なりの「妖怪ってこうだろう」という回答なんです。
ススワタリは「付喪神」である
一方で、ススワタリはまた別なんですよね。映画の中では「まっくろくろすけ」と呼ばれるあれです。
初登場で、メイがススワタリを叩いてしまう場面があります。手の中で潰れてしまっても、全然悲壮感がない。これ、何なのかというと、ススワタリは付喪神なんです。人間の生活によって生まれた、妖怪みたいなもの。茶碗や下駄が長く使われることで、命のようなものになる。命のようで命ではないし、妖怪のようで妖怪でもない。そういう曖昧な存在です。
ここで面白いのが、付喪神をウイルスにたとえているところです。細菌のような独立した生物ではなく、もっと機械に近い、不思議な中間的存在。ススワタリも、一つ一つに知性や目的があるわけではなくて、煤にそういう「妖怪ウイルス」みたいなものが取りついて、ススワタリ化していく。だから一斉に動くけど、一匹一匹に人格があるわけではない。メイにやられても悲壮感がないのは、そのためなんですね。
これも、何でも人格化してしまう妖怪観への、宮崎駿なりの異議申し立てだと思います。「妖怪って、もっといろいろあるだろう」と。ネコバスもススワタリも、水木妖怪的なわかりやすさからズラして作られている。そこがまず面白いんです。
トトロの正体は、可愛い生き物ではなく「古代神」である

トトロは何者なのか
じゃあ、いよいよトトロです。トトロは何者なのか。
公式には年齢1302歳とされたこともあるし、『もののけ姫』のラストで若木の中に一匹だけ残ったコダマが、後のトトロだという話もある。もしそれが本当なら、『もののけ姫』の時代は室町末期だから、せいぜい5、600歳くらいになるはずです。ところが、宮崎駿は別のところで「トトロは3000年以上生きている」とも言っている。つまり、1302歳とか、『もののけ姫』のコダマ説とかは、後からついた設定で、本体としてのトトロはもっと古い存在なんですね。
鈴木敏夫も『風立ちぬ』の「ジブリの教科書」で、もともと宮崎駿はこういう妄想を膨らませていたと語っています。かつてこの世にはたくさんのトトロ族がいた。彼らは人類と戦って滅ぼされた。しかし、生き残りが時代ごとに姿を変えて現れる。中世ならモノノケ、江戸時代なら幽霊、そして今はとなりのトトロ。つまり、トトロは「ただ可愛いだけの生き物」ではなく、滅びた古代の一族の生き残りなんです。恐ろしさも含んでいる。これがベース設定なんですね。
トトロは人間を見ていない
トトロを考える時に重要なのは、あいつが人間にあまり関心を持っていないことです。
サツキが初めてトトロと出会うバス停のシーン、トトロは妙に退屈そうに立っていますよね。あれは、ネコバスが毎日あの時間に来るからなんです。つまり、トトロにとっては見慣れた日常で、サツキと出会うこと自体が特別じゃない。お互い、今まで何度も近くにいたのに、ただ見えていなかっただけなんです。宮崎駿は作画の注意として、「トトロの目の焦点を合わせないでください」「人間から何か考えていることを読まれるようでは困ります」とまで言っている。人間に興味がないんですよね。少なくとも、人間のドラマの中には入ってこない。そこがすごく神様っぽい。
だからトトロは、西洋的な「見えたら奇跡になる神」じゃない。むしろ日本の古い神様に近い。見えてはいけないもの、見えてしまったら祀らなければならないものです。田舎の山の中には、地元の人ですら近寄らない場所があるんですよね。なんかゾッとする、居心地が悪い、そこに行くと嫌な予感がする。そういう場所には道もないし、神社すらない。昔の日本人は、そういう場所を山の聖域として感じていた。トトロが住んでいるのは、まさにそういう場所なんです。気持ちいい自然、癒やしの自然ではなくて、近くにいるとゾワゾワして近寄れない場所。だからこそ、あの森は守られているんですね。
縄文土器とコマが示す、トトロと人間の長い関係
そのうえで、トトロの住処には不思議な人工物があります。縄文式土器です。自然しかない場所なのに、なぜか縄文土器がちゃんと置いてある。クローズアップになると、縄文の模様まで描いてある。さらに、トトロが回して空を飛ぶあの巨大なコマは、江戸時代に遊んでいた男の子からもらったものという設定だそうです。傘も同じで、本来の用途で使っているわけじゃなく、遊び道具や楽器みたいに扱っている。
つまりトトロは、人類より前から日本にいた古代神なんだけど、縄文人とはうまく共存してきた。その痕跡が縄文土器なんです。江戸時代の子どもとも遊んだし、カンタのおばあちゃんが子どもの頃にも会っていたかもしれない。トトロは3000年以上生きているから、縄文人も江戸の子どもも、本人からしたら「ちょっと前に遊んだ子ども」くらいの感覚なのかもしれません。そう考えると、トトロという存在のスケールが一気に変わってくるんですよね。
なぜトトロ一族は滅びたのか

日本列島そのものが変わってしまった
ここまでをまとめると、トトロは3000年以上前から日本に住んでいた森の神様で、縄文人とは共存できた。でも、その後、人間と戦争になって滅ぼされた。この映画に出てくるトトロは、その最後の生き残りということになります。では、なぜ滅んだのか。そこには、日本列島そのものの変化があるんです。
2万年前の日本は、今の列島じゃなくて、ほとんど半島みたいな巨大な大地でした。北海道、本州、四国、九州が一つにつながっていて、朝鮮半島とも陸続きに近かった。瀬戸内海もない。この広大な大地があったからこそ、巨大な針葉樹林や落葉広葉樹林が維持できた。古代日本に「神が存在できるだけのスケールの森」があったのは、この巨大な日本半島だったからなんですね。『もののけ姫』の犬神やシシ神が生きられたのも、そういう世界が前提です。
ところが、縄文時代に入るころ、平均気温が一気に7度から8度も上がった。海面が100メートル近く上昇して、日本の大地はかなり水没してしまう。その結果、瀬戸内海が生まれ、日本列島が今のような形になっていく。つまり、トトロたち古代神を支えていた巨大な森そのものが、まず地形レベルで失われたんです。
さらに7300年前には鬼界カルデラの大噴火が起こる。九州から中国地方まで、人間も住めないレベルの大災害になり、縄文初期の文明は全滅したとも言われている。神々の側から見れば、海面上昇で住処を失い、火山噴火で追われた。これだけでもう壊滅的なんですね。
森が里山に変わり、神々は生きられなくなった
そこに、弥生人の大規模農業が入ってくる。海峡ができ、日本海ができ、気候が変わり、稲作に向いた土地が広がっていく。稲作が始まると、森がどんどん伐採され、田んぼになり、人口が増える。つまり、神々を生かしていた原始の森が、生活のために使いやすい雑木林、里山に変えられていったんです。今、僕らが山に行って「自然だな」と思っている風景の大部分は、実は原生林ではなくて、人間の手で作り変えられた森なんですね。
トトロたちの先祖、古代の神々は、そんな雑木林では生きられない。本来は、原始の森から生まれた存在だからです。だから『もののけ姫』で乙事主が嘆いたように、体は小さくなり、言葉も話せなくなっていく。そのなれの果てが、この映画に出てくるトトロなんです。体長わずか2メートル、人間の言葉がしゃべれない神様。でもその代わりに、人間と共存する術を覚えた。どんぐりを食べ、鎮守の森でひっそり暮らし、縄文人から土器を習い、江戸時代の子どもからコマ遊びを覚えて、なんとか絶滅せずに生き延びてきた。そういう存在として見ると、トトロは急に「可愛いマスコット」ではなくなるんですよね。
『トトロ』『もののけ姫』『ナウシカ』は一つの大きな循環でつながっている

この裏設定を子ども向けに描いたのが『となりのトトロ』で、そこに隠した歴史を我慢できなくなって、10年後に描いたのが『もののけ姫』なんです。だからこの二作は、逆順の関係に近い。先に「生き残り」を描いて、後から「なぜそうなったのか」をさかのぼって描いている。宮崎駿自身が、縄文時代の農業や照葉樹林文化にどんどんハマっていって、もう描かずにいられなくなった結果が『もののけ姫』だったわけです。
さらに言えば、この流れは『風の谷のナウシカ』にもつながっている。巨大な神のような存在に隠れて人間が細々と生きている世界を描いたのが『ナウシカ』で、巨大な神を人間が滅ぼしてしまう過程を描いたのが『もののけ姫』で、その末裔が、もはや小さくなって、子どもとだけかすかにつながる存在として生きているのが『となりのトトロ』なんです。実はこの三作は、すごく大きな循環の中でつながっている。そう考えると、『となりのトトロ』は、単なる「子ども向けの名作」ではなく、宮崎駿の自然観、人間観、日本観がぎりぎりまで圧縮された作品なんですよね。
OTAKING / Toshio Okadaをもっと知りたい方へ
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