※本記事は、YouTube動画の内容をもとに文字起こしを行い、話し言葉や誤変換を整理したうえで、要点が伝わるようにまとめています。
内容理解を目的としており、発言をそのまま再現したものではありません。
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『火垂るの墓』を見るたびにしんどくなるのは、戦争の悲惨さや兄妹のかわいそうさだけでは説明しきれません。この記事では、冒頭の灰皿が示す「現在に留まり続ける清太の霊」という構造から、この作品が最初から何を描こうとしているのかをたどります。
あわせて、節子の死後に残された雑炊やスイカ、清太の無表情、ホタルの扱い、高畑勲がこの作品を“泣かせる映画”として作っていないことまで整理しながら、『火垂るの墓』がなぜ「かわいそう」で終われないのかを見ていきます。
おばさんが悪い、清太が悪い、戦争が悪いといった単純な見方では届かない、この作品の本当の怖さを考えたい人に向けた内容です。
なぜ『火垂るの墓』はあんなにしんどいのか

こんばんは。今日はついに『火垂るの墓』です。
公開は1988年4月16日。つまり、この作品が世に出てから、ちょうど節目のタイミングなんですね。しかも金曜ロードショーでも放送されたばかりで、改めて見た人も多いと思います。
で、僕がずっと引っかかっているのは、どうしてこの映画は、あそこまで人の心をかきむしるのか、ということなんですよ。辛いとか、しんどいとか、かわいそうとか、そういう言葉だけではちょっと足りない。アニメの中でも、あの感じはかなり唯一無二です。
しかも、高畑作品って、感動したとしても「なぜ感動したのか」が言葉にしにくいんですよね。宮崎作品みたいに、「このセリフが刺さった」とか、「このキャラが好きだ」とかで整理しにくい。だから人は、しょうがなく近くにある言葉で「かわいそうだから」とか「戦争だから」とかで代用してしまう。
でも、たぶんそれでは足りない。今日はそこを見ていきます。
よくある「おばさんが悪い」「清太が悪い」「戦争が悪い」という話より、もう一段深いところです。しかも正直、これを知ると、みんなと一緒にただ泣いて感動する見方には戻れなくなるかもしれない。それくらい、ちょっと怖い話をします。
『火垂るの墓』は冒頭からもう怖い

多くの人はラストをちゃんと覚えていない
『火垂るの墓』の話をするとき、多くの人はこういう筋だけを思い出します。
空襲で母を失い、親戚の家で肩身の狭い思いをし、兄妹だけで暮らし始め、やがて節子が衰弱し、最後は清太も駅で死ぬ。もちろん大筋ではその通りです。
でも、実際にはそこから先が大事なんですよね。
ラストには、清太と節子が、繁栄した神戸の街を見下ろしているシーンがある。これをちゃんと受け取っている人が、びっくりするほど少ない。覚えていない人も多いし、覚えていても「最後に成仏したのかな」くらいで流してしまう人が多い。
でも、本当に怖いのはそこじゃないんです。
この映画、ラストで現在に戻るんじゃない。最初からもう現在なんですよ。
冒頭5秒の灰皿が示していること
冒頭、清太の霊が「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」と言う。
そのあと視線が下に流れて、柱のある駅構内のカットになる。そこに一瞬、手前に何かが映るんですね。これが灰皿なんです。
で、この灰皿が戦時中のものじゃなくて、現在のデザインなんですよ。
つまり何が起きているかというと、清太は過去を回想しているのではなく、映画公開時点の現在に、まだあの場所にいる。現在の三宮に留まり続けていて、そこから自分の最後の数か月を何度も何度もリプレイしている、という構造なんですね。
これ、最後に現代の神戸が映るから、みんな「過去の話をして最後だけ現在に戻った」と思いがちなんですけど、そうじゃない。冒頭からずっと、現在に取り残された清太の霊の話なんです。
だから『火垂るの墓』って、単に「かわいそうな戦争アニメ」じゃない。
なぜ清太は、死んでから何十年も、自分がいちばん苦しかった時間を延々見続けなければならないのか。その理由を解くミステリーとしてできているんです。
高畑勲としては、たぶん「ちゃんと映してるでしょ」と思ってるんですよ。灰皿を映してるんだから、わかるはずだと。
でも、こんなの気づくはずがない。わかるわけがないんですよ。そこがまた、この人らしい。観客に甘えすぎなんです。
清太は「ただひたすらかわいそうな被害者」としては描かれていない

雑炊とスイカが示しているもの
この映画って、ぼんやり見ていると大事なカットをどんどん見落とします。
なぜかというと、最初から「かわいそうな話だ」と決めて見てしまうからです。そうすると、高畑が仕込んでいる意地悪な情報を見飛ばしてしまう。
その代表が、節子が死ぬ前後の描写です。
清太は最後の貯金を下ろして、節子のために卵と鶏肉の雑炊を作る。ところが、節子はそれを食べる前に死んでしまう。ここだけ見ると、ただただ悲しい場面です。
でも翌朝、洞窟の中を映したカットでは、その雑炊の器に箸とさじが突っ込んである。つまり、清太は食べているんですね。
さらに、節子が一口しか食べられなかったスイカも、その後ちゃんと減っている。しかも、甘い山のてっぺんの一番おいしい一切れだけは節子に食べさせ、自分はそこには手をつけていない。
ここが嫌なんだけど、すごいんですよ。
高畑勲は、清太の人情も描く。でも同時に、生きるための食欲も描く。妹が死んだ直後でも腹は減るし、食べる。そこをきっちり描いてしまう。これがこの人のリアリズムなんですね。
無表情の清太とクレショフ効果
節子が生きているとき、清太はわりと泣くんです。
「お母ちゃん、もう死にはってお墓の中にいてるねんて」と節子に言われたら、わんわん泣く。
ところが、節子が本当に死んでしまったあとは、逆に泣かない。
添い寝しているときも、火葬しているときも、顔はほとんど無表情なんですね。炎の照り返しが目の中でチラチラしているだけで、悲しみをわかりやすく演技させていない。
ここで効いてくるのが、クレショフ効果です。
無表情の顔と、悲しい状況を並べることで、観客が勝手にそこに悲しみを読み込んでしまう。つまり僕らは、この無表情を見て、「悲しみをこらえているんだ」「悲しすぎて泣けないんだ」と解釈して、勝手に泣いている。
でも、高畑が見せているのは、むしろ人間性が壊れていく清太なんですよ。
妹が死んだのでほっとしてしまう。安心して腹が減る。食べてしまう。炭も買いに行ける。そういう、きれいごとでは済まない人間の変化を描いている。
ただし、それを下品には描かない。
ガツガツ食ってる場面は見せない。証拠だけ置いておく。その上で、観客の側に感情の仕事をさせる。この上品さと意地悪さが、高畑勲なんですね。
高畑勲は、そもそも泣かせようとしていない

これは「お涙頂戴」ではなく文芸として作られている
高畑勲って、実は観客を泣かせようと思って映画を作っていないんですよ。
『母をたずねて三千里』の時点で、企画書に「我々はお涙頂戴を作るつもりは全くない」と書いているくらいです。
でも、見ている方は泣いてしまう。
ここでズレが起きる。高畑勲は、自分の演出意図をかなり論理的に考える人なんですけど、観客が絵にどれだけ感情移入するかを、ちょっと見誤るところがある。自分で絵を描かないぶん、絵の持つ力をなめてるんですよ。
清太を感情移入しにくい存在として置いても、アニメーションとして描かれた時点で、僕らはかわいそうだと思ってしまう。無表情でも悲しみを読むし、弱さを見れば肩入れしてしまう。高畑としては、もう少し引いた視点で、批判的にも見てほしいのに、観客は泣くのに忙しくてそこまでいかない。
エンタメの宮崎駿、文芸の高畑勲
ここで宮崎駿との違いが出ます。
宮崎作品は、感動の理由を言葉にしやすいんですね。良いセリフがある。キャラクターがはっきりしている。たとえばドーラみたいに、「ああ、この人ほんとは良い人なんだな」と伝わるように、ちゃんとセリフと演技で組んである。
これはエンターテインメントです。
伝わることが大事だから、キャラが何を考えているか、ちゃんとわかるようにしてある。
でも高畑勲は、それを嫌う。
何を考えているのかわからない人物を置いて、観客一人ひとりに「この人はいま何を考えているんだろう」と考えさせたい。つまり『火垂るの墓』を、文芸として作っているんです。
だから、高畑作品は感想が割れる。
おばさんが悪い、清太が悪い、戦争が悪い、いや見てられない、と反応がバラバラになる。高畑としては、それでいいんですよ。むしろそこから何年も考えてほしい。泣いて終わるんじゃなくて、なんでこうなったのかを延々考えてほしい。
その意味では、この人、ほんとに観客に甘えてる。
自分の作品には何年も考え続ける価値があるはずだ、と本気で思っている。うぬぼれと言えばうぬぼれなんだけど、そのくらい馬鹿正直に作品へ賭けている。そこが強烈なんです。
『火垂るの墓』の「火垂る」とは何か

ホタルは最初から「死ぬ直前に光るもの」として描かれている
この作品でホタルがどう扱われているかを見ると、タイトルの意味がかなり見えてきます。
洞窟で暮らし始めた夜、空を飛ぶ飛行機の小さな点滅を見て、節子が「ホタルみたいやね」と言う。
でもそれは、これから自殺攻撃に向かう飛行機なんですね。つまり最初からホタルは、死ぬ直前に最後の光を放つものとして描かれている。
さらに、清太は節子のためにたくさんのホタルを捕まえて、蚊帳の中に放つ。
その画面は美しいんだけど、構図はどこか不穏で、死を暗示するように組まれている。しかもその場面で清太が思い出すのは、光に包まれた連合艦隊の観艦式なんですよ。これもまた、すでに死に向かっているものの輝きなんですね。
つまりこの作品では、光るものはだいたい死んでいく。
ホタルも、特攻機も、連合艦隊もそう。だからこそ、美しい。でもその美しさは、最初から死の匂いをまとっている。
ホタルの死骸が突きつける残酷さ
翌朝、節子はホタルの墓を作る。
「お母ちゃんもお墓に入ってんねんやろ」と言って、そこで清太は号泣する。ここだけ見ると涙の場面なんですけど、高畑はそのあと、大量のホタルの死骸をしっかり見せるんですね。
これが嫌なんですよ。
でも、ここに作品の核心がある。ホタルはきれいだった。兄妹もその美しさに慰められた。けれど、そのためにホタルは蚊帳に閉じ込められ、自由を奪われ、死んでいる。
つまりこの兄妹もまた、無邪気で美しい存在であると同時に、他の命に対して不条理で残酷な存在でもあるんです。
戦争だけが一方的に残酷なのではない。人間そのものが、慰めや美しさのために、別の存在を踏みつける。その構造が、ホタルの死骸で一気に出てくる。
だから「火垂る」は、単なるホタルじゃない。
空襲で火が垂れ落ちることでもあるし、死に向かう光そのものでもあるし、美しさと残酷さが同時に成立してしまう、この作品全体の構造そのものなんですね。
この映画のテーマは「戦争反対」ではない

高畑勲はそこを何度も否定している
『火垂るの墓』を見ると、多くの人は「やっぱり戦争はダメだ」と言いたくなる。
でも高畑勲は、そこを何度も否定しているんですよ。
どれだけ悲惨なものを見せても、人は必ずしも「だから戦争をやめよう」とはならない。むしろ「こんな思いをしないためにも軍事力が必要だ」と言い出すのが人間であり、日本人だ、とかなり冷たく見ている。
だからこの作品は、戦争反対の情緒に回収されるようには作っていない。
問われているのは、社会とのつながりを切った清太の姿
高畑勲が描こうとしたのは、「困難に立ち向かい、たくましく生き抜く立派な少年少女」ではない。
そうではなくて、社会とのつながりをわずらわしく感じ、兄妹だけの小さな世界を作ろうとした、心優しい現代的な若者の姿なんですね。
実際、冒頭にはちゃんと、おにぎりを与えてくれる人がいる。
つまりこの世界には、誰も彼も鬼しかいないわけじゃない。本当に頭を下げてつながろうとすれば、手を差し伸べる人はいる。にもかかわらず、清太はそこへ戻れない。
だからこれは、戦争が悪い、時代が悪い、貧しさが人の心を荒ませた、というだけの話ではない。
もちろん戦争の状況は巨大です。でも高畑は、その言い訳が成立しないように、冒頭でちゃんと逃げ道をふさいでいる。清太は、社会とのつながりを切ってしまった。そのことの怖さを描いているんです。
ここが、この映画のいちばんしんどいところだと思います。
「かわいそう」で終われないんですよ。清太の気持ちはわかる。でも、そのわかりやすさ自体が現代的で、だからこそ余計に怖い。自分の世界に閉じこもることができてしまう現代の若者と、清太はどこかでつながって見えてしまうからです。
『火垂るの墓』が本当に怖い理由

結局、この作品が怖いのは、死や戦争の悲惨さを描いているからだけじゃないんですよ。
冒頭から現在に取り残された清太の霊がいて、彼は自分の最後の時間を延々見返している。
その理由を追っていくと、そこには「かわいそうな被害者」というだけでは済まない清太がいる。妹を愛している。でも妹が死んだあとに食べもする。泣きもする。でも本当に決定的なところでは人間性を失っていく。その複雑さを、高畑勲は上品に、でも絶対に逃がさずに描いている。
しかも、その全体を「文芸」として作っているから、答えを言ってくれない。
何を感じるべきか、どこで泣くべきか、誰が悪いのかを、親切に整理してくれない。ただ材料だけを置いて、「あとは考えてくれ」と突き放してくる。
だから、見終わっても終わらないんです。
感動して終わる映画じゃない。見終わったあとに、なんで清太はこうなったのか、なんで節子は死ななければならなかったのか、なんで自分はこの場面で泣いたのか、それをずっと考えさせられる。
そういう意味で、『火垂るの墓』はトラウマアニメなんじゃない。
もっと嫌な言い方をすると、観客の心に「考え続ける呪い」を残すアニメなんです。だからしんどいし、だから唯一無二なんですよ。
OTAKING / Toshio Okadaをもっと知りたい方へ
まずはここから。
岡田斗司夫ゼミの無料・限定・プレミアムの違いを、はじめての方にもわかりやすくまとめています。
元動画はこちら
こちらが、今回の記事の元になったYouTube動画です。
要点だけでは伝えきれない話し方や空気感もありますので、
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